序曲(53) 金鶴泳

日付: 2010年01月28日 10時12分

 ウェイトレスが、水の入ったコップとおしぼりを運んできた。アイスコーヒーを注文したあと、祥一はおしぼりで顔と手を拭いた。
「君の方も、元気でやっているかい?」
「ええ、元気にやっています」
 洋子は応えた。
「手紙をありがとう。仕事が忙しかったようだね」
「そうなの。ちょっと、いろいろなことが重なって」
 洋子は、ストローでアイスコーヒーをひと口飲んだ。
「でも、もう一段落着きました。しばらく、出張はない予定だわ」
 祥一は煙草に火をつけた。
「引越しのお手伝いが何もできなくて、ごめんなさい。荷物の整理や、お部屋の掃除ぐらいは手伝いたいと思っていたんだけど、あいにくその頃は関西に行っていて……」
「いいんだよ、そんなこと。荷物といったって、たいした量ではない」
 洋子の気遣いが、祥一にはまぶしく感じられた。


「これ、金沢で買ってきたゴリの佃煮なの。お口に合うかどうかわからないけど、お酒のおつまみにどうかと思って」
 と、洋子は脇のハンドバッグの上の小さな紙袋をとり、祥一に差し出した。
「ゴリ?ゴリって何だい」
「川魚よ。カジカのことを金沢ではゴリっていうらしいの」
「カジカも食べたことがない。珍しい佃煮だね。どうもありがとう」
 祥一は、またまぶしいものをおぼえた。北陸に身を置いていても、自分に注がれ続けていた洋子の心の目を感じた。それに引きかえ、自分の心の目は、いったいどこに向いていたのか。
 土曜日の午後とあって、店には結構客が入っていた。ざわめきのあいだを縫うように、シャンソンのリズムが低く流れていた。
 ウェイトレスがアイスコーヒーを運んできた。それをひと口飲んでから、
「今日はいい具合いに晴れ上がったね。ようやく梅雨も明けたようだね」
 と祥一は窓の外の空に目をやった。
「金沢のあたりは、天気はどうだった?」
「天気には恵まれなかったわ。ほとんど毎日、雨ばかり降っていました」
 そして洋子は、金沢の近くのある山間(やまあい)の町の美容院に行ったとき、強い雨のために山崩れが起きて、帰り道を塞(ふさ)がれてしまい、町の小さな宿屋にひと晩泊るのを余儀なくされたことなどを話した。金沢にN化粧品の代理店があり、金沢滞在中はそこの車で、市内はじめ、近くの町を回ったのだという。
 祥一は、金沢は知らない。去年の三月の春休み、衝動的に旅行を思い立ち、上越線で直江津まで行ったことがあるきりである。
 越後平野の畦道に、同じ木が艇々(えんえん)と続いていたのが印象的だった。三月だけに、どこまでも続いている田園に稲はなく、ただ水だけが池のように湛(たた)えられている。重い雨雲が空を覆っていて、葉のない並木だけが畦道に続いている光景は、ひどく陰欝な眺めだった。得体の知れない屈した気分に閉じ込められていた祥一にとって、その眺めはひときわ心にしみた。
 土地の人らしい中年の奥さんが隣りに坐っていたので、畦道に続いている木の名をたずねたら、「タモの木」だと教えてくれた。稲刈りの時期には、木と木の枝に竹竿を渡して、そこに稲を吊るすのだという。木の高さは十数メートル、梢の部分にだけ枝が小さな塊のように茂っていた。

1984年9月1日6面掲載


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