洋子が祥一の引越し先のアパートの部屋を見に、西荻窪にやってきた日は、前日まで空を覆っていた雲が消え、からりと晴れ上がっていた。
どうやら、梅雨は明けたようだ。空にまぶしく光っている太陽は、すでに夏のそれだった。ところどころに高層雲の塊が浮いている空は、すでに夏の空の青さを帯びていた。
祥一は、午後一時ちょうどに、駅の傍にある喫茶店「L」に行った。入口のすぐ近くに、薄く紫色がかった半袖のブラウスと、深いベージュ色のスカートを身につけた洋子が坐っていた。
洋子は、律儀なほどに約束の時間を守る女である。約束の時間の、少なくとも五分前には指定の場所に着いている。
教養学部のとき、ある同胞の女子学生がいた。同胞学生のサークルである「トラジ会」のメンバーで、仏文科進学志望の文科の学生だった。
トラジ会は、教養学部に在籍している、イデオロギーを抜きにした同胞学生の親睦のためのサークルで、メンバーは総勢二十人たらず、そのうち常時集まりに顔を出していたのは七、八人ぐらいのものだったが、祥一も、その女子学生も、常連組に属していた。
当初、彼は、彼女の利発そうな風貌に惹かれ、彼女にちょっと関心をおぼえたものだが、ある日、つぎのトラジ会の会合場所を打ち合せるために、構内の喫茶店で二人だけで会う用事があった。
祥一は、約束の時間の十分ほど前に喫茶店に行った。彼女は二十分ばかり遅れて姿を現わした。
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その点は、祥一は、別に意に介しなかった。何かの都合で約束の時間に遅れることはよくあるものだ。だが、彼が、お互いの気分をほぐすといったほどの意味で、ごく軽い気持で、
「遅かったじゃないですか。三十分も待ちましたよ」
といったとき、彼女はすました顔で、こう応えた。
「わたしは、約束の時間にくることはないの。早くて、約束の時間の五分すぎね。今日はちょっと遅れてしまったけれど」
彼は、彼女の言葉に高慢さを感じた。少しでも相手を待たせては悪い、という意識がまったく欠けている。彼は、彼女に微かに反発をおぼえた。彼女に対する関心が、にわかに色褪(あ)せて行った。
あの女子学生が五分後の女だとすれば、洋子は、いわば、五分前の女である。この五分の違いの意味はかぎりなく大きい、といつだったか彼は考えたことがある。
祥一が「L」の入口を入って行くと、アイスコーヒーを前に坐っていた洋子は、膝の上のハンドバッグを脇に置いて立ち上がった。そしてさわやかな微笑を浮かべながら頭を下げ、挨拶した。親密な関係になっているはずなのに、まだ洋子は、ときどきそのようにあらたまった調子で挨拶することがある。
仕事の癖が、つい出てしまうのだろうか。それとも、いまのは、ひさしぶりに顔を合せた懐かしさをこめてのものだろうか。
「やあ、しばらく」
と、祥一は洋子の向かいの席に腰を下ろした。
「ほんとうに」
相変わらず微笑を湛(たた)え、洋子はしげしげと祥一の顔を見つめた。
「お元気?」
「元気だよ」
「お引越し、たいへんだったでしょう」
「たいへんというほどでもなかったよ」
1984年8月31日4面掲載