『北朝鮮帰国事業ー「壮大な拉致」か「追放」か』菊池嘉晃著

萩原遼書評 ターニングポイントは1958年・金日成 
日付: 2010年01月20日 00時00分

中公文庫 定価=800円
 帰国事業はなぜおきたかを分析した本は、私の知る限りでこれまで10冊ほど出た。納得いかないものがほとんどだったが、この本はいちばん納得できた。書いた人が1965年生まれの帰国事業を知らない世代であることも驚きである。帰国運動の終わった1980年前後のころ、著者は中学生だった世代である。よくここまで目配りしたと思うほど資料を踏まえている。日本語文献はもとより得意の韓国語にくわえて、英語、ロシア語の資料も読み込んでいるところが、類書と異なる。

 著者の見解も穏当で説得力に富む。人柄のよさと育ちのよさを感じさせ、私とは違うなあと感心した。
 「在日朝鮮人追い出し策動」としての帰国事業という説を「事実誤認」と退け、帰国事業の動機を金日成の意図にあったと主張する。当時の北朝鮮の政治状況を説明するとともに金日成が本音を打ち明けた平壌のソ連大使館員らの日記や手記で裏づけている。第5章の「北朝鮮はなぜ『帰国』を推進したか」である。

 この本から私が学んだのは金日成が大規模帰国に取りかかる1958年という年の重要性である。1956年のスターリン批判が北朝鮮に波及して反対派の批判で累卵の危機にあった金日成が、権謀術数と残忍な弾圧で反対派を一掃し独裁体制を固めたのが1958年。金日成には第一次5カ年計画(1957年から1961年)を成功させるしか体制維持はなかった。労働力と技術が決定的に不足していた。大量の在日朝鮮人が誘引された。

 この1958年は今後も研究対象としてあり続けるだろう。
 金日成の犠牲となった在日朝鮮人の側にも北と朝鮮総連の口車に乗らざるを得ない事情もあったことを、第6章の「なぜ『未知の祖国』へ渡ったか」でくわしく分析している。第5章と第6章が本書の圧巻である。すなわち日本での生活難。能力があっても朝鮮人差別で就職できない。在日の若者は不良ややくざ組織にはまり込む人も少なくなかった。その弱みを握って仕事も勉学も保障するとの甘言。夢を見たものは悲惨な境遇に陥れられた。
 こんなに切なく祖国を思った人たちをだました罪の深さを思う。

 良かれと思って在日朝鮮人の親友に帰国をすすめた私も責任をまぬかれない。1972年から一年間の赤旗特派員時代にこの国の異常さと在日朝鮮人の苦難を知った。私もまた十字架を背負ってよろめき歩むしかない。

 この本の著者は現役の大手新聞社の記者である。パソコンで取り出す資料で安直に記事にまとめる記者の劣化が見られるなか、いまや絶滅危惧種といわれる堂々の専門記者である。また、これだけの中身の本を高いと売れないからと新書版に押し込める日本の出版界の劣化も嘆かわしい。著者は韓国の成均館大学大学院に留学し、「北朝鮮帰国事業」で修士号を得ている。この本もしかるべき場で博士論文として正当に評価されることを願う。

 (はぎわら りょう ジャーナリスト・元赤旗平壌特派員)


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