趙甲済
李容勳大法院長は、盧武鉉政権の時はよく喋った人だ。憲法は、判事は法律と良心に従って裁判をするように規定されているのに、彼は、親北左派政権の時、国民世論を反映した裁判を強調した。大企業の会長に有利な判決が下されたと判事たちの前でこれを公開的に批判したこともある。
この人が李明博政府の出帆以降は沈黙している。左傾的判事たちが、左傾的被告人らの暴力に対して言語道断の判決を次々下して国民世論が湧き上がっても他人事のように沈黙する。彼は、「姜基甲(民労党議員)の乱動」に対する無罪判決が国民世論に符合すると思う模様だ。彼は、行動せねばならない時、沈黙することでそのような異常な裁判を結果的に庇護しているわけだ。理念的に集まった「わが法研究会」という(左傾)判事たちの私組織に対しても適切な措置を取らない。これもまた、そういう性向の判事たちを沈黙をもって庇護している気がする。
李容勳大法院長の下での時局事件の判決らの性向は、明確な傾向性を見せる。従北、親北、左翼、警察暴行者、「ロウソク乱動」のならず者、民主労働党員、スパイ嫌疑者、利敵勢力に対する温情的な判決と、憲法守護の愛国人士たちに対する苛酷な判決が対照的だ。大韓民国を攻撃する者らに対する同情と、大韓民国を守ろうとする人々に対する敵愾心や冷淡さ! これは李容勳大法院長と一部判事たちの理念的性向や趣向を反映したものと見ることができよう。
2008年、ありもしないアメリカ産牛肉の狂牛病危険性を操作、誇張して3ケ月間も不法夜間暴力示威を行って、韓国の心臓部を麻痺させた左翼性向の主謀者と悪質的な暴力行為者らを検察が拘束起訴するや、判事たちがほぼ全員を保釈、執行猶予などで釈放した。警察官を暴行した者らを特に親しく対したのが担当判事たちだった。「ロウソクならず者」らは、「乱動」の1周年をむかえ、懺悔して蟄居すべきその日、再び都心部を無法天地にした。この主謀者らが自信したのは、左翼の暴動を寛容で対する判事たちであったはずだ。検察と警察が逮捕しても、その判事らが釈放するから安心して乱動を働こうという思いがなかったら、こういうことはできなかったはずだ。
一部の判事が「ロウソク乱動」の暴力示威者たちに対する裁判を先送りするのを見兼ねた申暎澈ソウル中央地方院長(当時)が、「通常の手続きのとおり裁判せよ」と勧告したのを一人の部長判事があたかも裁判に関与したかのように誇張し、外部へ暴露するや申暎澈現最高裁判事を調査するようにし、倫理委に回した人が李容勳氏だ。こういう場合は行動が素早い人だ。
盧武鉉が、自分の「左傾コード」に合わせて任命した李容勳大法院長は、就任以降「人民裁判論」に似た国民裁判論を説き、特定の裁判結果に対して露骨な不満を表出するかと思えば、盧武鉉が作った「超法的委員会」が、大法院の確定判決まで覆して司法府を侮り蔑んでも沈黙し、先輩の判事たちが権威主義政府の時下した一部の判決に対しては、権力に屈従した裁判と看做して勝手に謝った。李在教仁荷大学法学大学院教授は、昨年朝鮮日報に寄稿した文でこのように指摘した。
<法院の判決と相反する「民主化補償委」の決定は、法体系上でも有り得ないことだ。大法院の確定判決によって「反国家団体」を組織した行為と判断されたことを、一介の行政庁に過ぎない「民主化補償委」が民主化運動だと決めることで、大法院の判決を正面から否定したのだ。これは法体系の根幹を揺るがすことだ。法院の判決は最終的判断であるため、行政・立法など全ての国家機関がこれに拘束される。行政府所属の一介の委員会に過ぎない「民主化補償委」の大法院判決と相反する決定は、三権分立の原理に背馳する。
その間、「民主化補償委」の違憲的な決定に対して論難が多かったが、「民主化運動関連者」でない一般国民がこれを正せる制度的装置がなかった。「東義大学事態」の遺族たちが提起した憲法訴訟が却下されたのはそのためだ。その解決策として、田麗玉議員が現行30日である職権再審期間を10年に延長する内容の改正を推進している。しかし再審だけでは足りない。「委員会」が再審を棄却する場合には対策がない上、違憲的な決定に対して国民が争う方法は依然無いのだ。行政訴訟法上の民衆訴訟制度を導入しなければならない。違憲・違法な委員会の決定に対して、一般国民が再審を請求し、棄却されれば行政訴訟を提起できるように民衆訴訟制度を導入すれば、違憲的な決定に対して法院の最終判断を通じて正せる道が開かれる。>
金大中・盧武鉉政権が作った「超法的委員会」のため最も被害を受けたのは司法府だ。大法院が、「反国家団体」、すなわち逆賊と判断した犯罪者らに対して一介の行政部署が「民主化活動家」、すなわち忠臣と規定し、国家予算で補償までした。町役場が大法院の判決を覆したのと同然だ。
韓国の司法府、その司法府の独立を守らなければならない大法院長が、最小限の良心と法意識があったら、こういう蛮行を見て沈黙できなかったはずだ。だが、盧武鉉大統領が任命した李容勳大法院長は一言も言わなかった。
李大法院長は話すのが好きだ。特定の判決に対して辛辣な批判もした人だ。判事たちを集めて「裁判は国民がやるものだ」という趣旨のとんでもない発言までした人だ。「権威主義政権」の時、司法府が正しく判決できなかったと謝罪までした人だ。
こういう人なら、姜基甲議員の乱動に対する無罪判決に対して、また、「超法的委員会」の司法府に対する凌辱事態に対して話さなければならないのではないか。
前任大法院長の時の判決に対しては謝罪した人が、自分の在任期間中に起きている左傾的判事たちの反法治的宣告、司法府が一介の行政機関によってこのように凌辱される事態に対して沈黙している。李在教教授のような人もコラムを通じて痛嘆し、田麗玉のような国会議員も危険を冒してまで問題を正すためあのように戦うのに、当事者は口を硬く閉ざす。
法意識と良心のない大法院長に司法府を任せた結果が、今日の法治崩壊だ。国会での乱動、「ロウソク乱動」および「国家保安法違反事件」の裁判で、われわれは国家安保を害して公権力に挑戦した被告人らを同情し、殴られる警察官たちを敵対視し、大韓民国の正統性を否定する左偏向判事たちの存在を感じる。そういう勢力の背後に李容勳大法院長がいるという気がする。
李容勳大法院長は此の辺で司法府の真の独立のため退くのが、大韓民国のため、法治の回復のため、そして自らのために良い。大韓民国の憲法体制は、法律と良心がよって裁判しない判事たちまでを聖域と看做して無条件保護するわけにはいかず、司法府に対する国民の願望と信頼の墜落事態を招いた大法院長の任期を無条件尊重する必要がない。
新しい大法院長は、裁判官の任用制度を改革しなければならない。大韓民国と憲法秩序を尊重せず、北韓政権に憤怒しない者らが判事になる道を封鎖しなければならない。真の司法府の独立は、権力からの独立だけでは足りない。法院外の扇動家や裁判所内の「反法治勢力」からも独立しなければならない。
人間を裁く判事は、まず完全な人格と国民の資格から備えねばならない。法律技術者は要らない。