深沢正恵は、怪訝(けげん)そうな表情をすぐに消した。
「何か、書くものをお持ちですか」
そういってまたハンカチを額にあてた。
「散歩の途中なもんですから、何もありません」
「じゃあ、わたしの手帳に書いてあげましょう」
深沢正恵は、買物籠の中に小さな手帳を用意していた。それをとり出し、洋子の住んでいる保谷のアパートの住所、それから電話番号も書いたが、
「このアパートの大家さん、電話の取りつぎを嫌がるらしいのよ。ですから、電話をかける場合は片桐さんの勤め先の方がいいと思うの」
と深沢正恵は、洋子の勤務先の電話番号も書き添え、紙片をちぎって祥一に渡した。
「N化粧品は、本社は渋谷ですけど、サービスルームというのが池袋にあって、片桐さんはそちらの方で仕事をしているんです。この番号は、サービスルームの方の電話番号です」
深沢正恵はそう教えてくれた。
「どうもありがとう」
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祥一は紙片に見入りながら礼をいった。
「同級生で東京に出ている人は少ないものですから、お電話でもしてあげれば、片桐さんもきっと懐かしがると思うわ」
そして、二人は別れた。
こうして、郷里の町での深沢正恵との偶然の出会いによって、彼は洋子の東京での住所を知ったのだが、
「正恵さんに冷やかされちゃった」
と、後に洋子はいったものである。
「森本さんが、あんなに気軽に声をかけてくる人だとは思わなかった、東京に出ると、こんなにも人が変わるものかしらと思った、そういっていたわ。それに、あなたがわたしの住所をたずねたでしょう。正恵さんも、ずいぶん意外に思ったらしいわよ。森本さんはあなたに気があるんじゃないかしら、なんていわれちゃった」
と洋子は含み笑いした。
自分は、あのとき、洋子に気があって、それで深沢正恵に住所をたずねたのだろうか、と祥一はその日のことを思い返したが、彼にもそのときの自分の気持がよくわからなかった。気になる人だということは、その人に気があるということになるのだろうか。
洋子に含み笑いを返しながらも、彼は黙っていた。そして、心の中で、あの日自分が人が変わったように、たまたま出合った深沢正恵に気軽に声をかけたのは、夏のせいだ、あの日のあの蒸せるような暑さのせいだ、などと考えていた。
しかし、暑さのせいであるにせよ、そのおかげでとにかく彼は、洋子の住所を知ることができた。気になる人の所在を知り得た。所在を知り得ただけで、彼は満足すべきところのはずだった。だが、彼は、次第に、その満足の中でとどまっていられない自分を見出すようになっていた。
すでにほとんど分離されていたはずの、鬼胡桃(おにぐるみ)と洋子とが、ふたたび結びつきはじめた。鬼胡桃を握っていても、洋子を連想することはまずなくなっていたのに、それほどに鬼胡桃を握るという所作は彼の中で習慣化されてしまっていたのに、ふたたび鬼胡桃の音とともに洋子が甦(よみがえ)り出した。
〈鬼胡桃の女が、保谷にいる〉
彼はしばしば心につぶやいた。
1984年8月29日4面掲載