【特集】北送から50年―品川駅を通るたびに思い出す50年前の事

「楽園に帰れ」ラジオで呼びかけ 海を渡った民団幹部たちもいた
日付: 2009年12月11日 00時00分

 北送事業に反対した在日韓国人がいたことはよく知られた事実だ。彼らは「地上の楽園」の欺瞞を察し、同胞が北朝鮮に渡ることを身をもって阻止しようとした。

 北送の動きは1958年初から顕著になっていく。59年に入り、日本政府は「北朝鮮への送還の具体的な措置を取る」と発表。情勢はにわかに緊迫化した。民団は、日本政府を糾弾する一方、朝鮮総連を相手とする「北送反対闘争委員会」を結成した。
 2月、日本政府が在日朝鮮人の帰還を了解し、民団は全国45カ所で9万5000人を動員して北送反対民衆大会を開催。その年の8月15日の光復節を北送船が出る新潟で開いた。

 日本赤十字社が北送事務を開始する9月21日には東京・芝公園で「北送反対無期限断食闘争」を開始する。11月に入ると、東京都内で開かれていた総連の「帰国歓送大会」に民団員が出動して警察と衝突した。
 反対の声が最高潮に達したのは59年12月10日。第1次北送船に乗る同胞が品川駅から専用列車で新潟に向け出発する日だった。

 民団は都内で中央民衆大会を開催。青年行動隊約30人と600人の団員が品川駅に出向き、ホームと線路上で座り込んだ。
 「今でも鮮明に覚えている。品川駅の一番奥、12番線だった」
 北送反対運動動員部長だった金致淳さん(現・民団中央常任顧問)は語る。
 しかし、警察予備隊員がデモ隊を排除し、列車は走り去っていった。金さんは、今でも品川駅を通るたびに当時の情景を思い出す。

 一方、金日成の指示を受けた総連は、民団幹部の家族まで北送の対象にし、事業の宣伝に利用しようとした。60年代当時に民団中央団長を務めた権逸氏の弟をはじめ、多くの幹部の家族が北送船に乗った。彼らは平壌からラジオ放送で北朝鮮生活の素晴らしさを宣伝した。

 熟練印刷工が行けば、総連発行の写真誌「朝鮮画報」の質が飛躍的に向上し、当時藤原歌劇団の人気テノール歌手だった永田絃次郎(金永吉)は、新潟出港時と清津到着時に歌を披露した。有力経済人も重点的に北送の勧誘対象とされ、宣伝に利用された。
 「名声がなくても優秀な人なら『向こうにやって貿易会社を興せばいい』と誘い出した」と金さんは当時の様子を語る。

 北で帰国同胞が危険にさらされることへの憂慮もあったが、当時反対運動を展開した民団員らには、自分たちの組織が土台から崩されていく恐怖とも戦わなければならなかった。

 「70年代に行われた民団の『トプキ運動』(韓国の故郷への支援)は北送の反動だったでしょう」と、金さんは北送の“呪縛"が解けなかったことを示唆する。今は、当時を知る人が少なくなり、北朝鮮で苦しむ元在日同胞の存在は小さくなっている。北送反対運動に参加した在日韓国人は、50年前の記憶の風化を懸念している。

(東京=金総宰)


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