【特集】北送から50年―忘れられた人々・北送阻止隊の挫折

「祖国のためにもう一度働いてみないか」-快諾した彼を待っていたのは・・・
日付: 2009年12月11日 00時00分

 「静かにしてください」
 1960年4月末、ソウル中央放送局(現KBS)国際ラジオに聞き入っていた男たちは、アナウンサー松下寺子のこの一言で、がっくりと肩を落とした。

 本国からの暗号。「作戦中止、直ちに撤収」という意味だった。
 男たちは、韓国の李承晩政権が北送を止めるために送り込んだ「北送阻止隊」の工作員だった。
 北送阻止隊隊員だった趙承培氏(76)は内務部治安局職員から直接呼び出しを受けたと証言する。
 「一杯飲もうと呼ばれて会うと『祖国のためにもう一度働いてみないか』と提案されたのです」

 趙氏は明治大学に在籍していた当時、朝鮮戦争に在日韓国人学徒義勇軍として参戦した。18歳の最年少兵だった趙氏は、北朝鮮共産主義者の恐ろしさを身をもって体験した。阻止隊への入隊は二つ返事で快諾した。
 趙氏は1959年9月初旬、ソウル北漢山のふもとにある新元寺(現・普光寺)に呼び出された。在日学徒義勇軍出身者41人、警察幹部試験合格者24人、予備役将校1人の計66人が、3小隊に分かれて訓練を受けた。
 暗号の使い方や身分の偽装といった訓練から、特殊破壊、浸透、変装などの特殊訓練まで受けた。

 「ほかの隊員が何をやっているかはまったく知らなかった。日本の事情をよく知る私には、隊員に指令を伝達する連絡役である『レポ』の任務が与えられました」

 ところで、阻止隊員らに後日ラジオで指令を下す「松下寺子」の正体は誰だったのか。
 「新元寺の近くは樹齢数百年という松で囲まれていた。指令を下す人は女性だから『松下寺子』という名前になった。治安本部を指す暗号ですよ」
阻止隊第3小隊。後列左から3人目が趙氏。(59年11月撮影)
 隊員らは約2カ月の訓練を終え、日本に投入された。第1次北送船が新潟港を出る12月14日を1カ月後に控えた時期だった。渡航方法は密航以外になかった。隊員は釜山・馬山・統営など、慶尚道の海岸都市から7回に分けて漁船を装った船で日本に渡った。

 ところが、12月13日に第6便「明星号」に乗って出航した12人の隊員が遭難した。福岡の小倉に向かう途中に沈没したとも、新潟近海で北送阻止作戦をしていて日本の警備艇に追われて転覆したとも言われるが、真相は明らかになっていない。

 日本に渡った54人の活動も困難を極めた。日本警察の監視は厳しく、工作のベースになる在日韓国・朝鮮人社会には北朝鮮政権に好意的な人が多かった。3万円の工作費は底をつき、厳しい監視下で隊員同士の連絡すら容易でなかったが、工作任務は続いていた。
 作戦終了が決定したのは、60年4月19日に李承晩が下野した直後のことだった。その2週間後、冒頭の松下寺子のアナウンスがあった。

 阻止隊員らは5月初旬、帰国するために下関に集結した。船底に身を潜めて出港を待っていると、突然甲板から足音が聞こえ、ライトが照らされた。
 趙氏を含む24人は逮捕され、東京で捕らえられた1人を加えた25人が出入国管理法違反などで実刑を宣告された。韓国人密航者は国外追放という比較的寛容な措置が慣例だった当時の状況と比較すると、実刑は異例。それだけ日本当局が事態を深刻に捉えていたということだ。

 隊員らは駐日韓国代表部に請願したが「李承晩が送り込んだ者をどうして私たちが助けなければならないのか」という冷ややかな反応が返ってきた。しかし翌61年5月16日に朴正熙がクーデターを起こして大統領の座についた直後、代表部は「日本と交渉に入ったからもう少し待ってくれ」と態度を変えた。

 「クーデターから半月も経たずに釈放されました。博多から蒸気船に乗って釜山に到着したら中央情報部(当時)の要員らが出迎えてくれました。いくらか苦労が報われたようで涙が出ました」

 北送阻止隊に対して政府が好意を見せたのはそれが最後だった。一部の隊員は政府から就業の斡旋を受けたが、ほとんどの隊員には何の補償もなかった。警察の幹部候補生らは警察から採用を拒否された。

 隊の結成から50年経った今年5月、最初に殉職した在日韓国人隊員12人の名が、国家功労者を埋葬するソウル国立顕忠院の慰霊碑に刻まれた。それでも生存者が何人いてどこに住んでいるかはいまだに把握されていない。

 暗い歴史の裏側で、祖国のために2度も命をかけた国民がいた。しかし彼らの存在はほとんど忘れ去られようとしている。彼らにどう報いるのか、「松下寺子」に聞いてみたい。

(ソウル=李民晧)


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