序曲(45) 金鶴泳

日付: 2009年10月20日 15時50分

 机の上の本の脇には、相変わらず三個の鬼胡桃(おにぐるみ)が置かれている。二年あまり握り続けてきただけに、色もだいぶ黒ずんでいる。
 祥一は、洋子の手紙をひろげたまま本の上に置くと、鬼胡桃を手にとり、擦り合せて音を鴫らした。カリカリという音を耳にしつつ、また窓先の栗の葉に目をやった。雨は少しずつ小降りになって行くようだった。
「想う人が誰もいないなんて寂しいわ」
 いっかの洋子の言葉がよみがえった。その通りだ、と祥一も思う。この世の中に、想う人が誰もいないのはたしかに寂しい。寂しいからこそ、自分はこうして洋子の贈ってくれた鬼胡桃を手放さずにいるのではないか。ということは、無意識のうちにも、自分も洋子を想っているのだろうか。
 鬼胡桃を贈ってくれた女。自分の部屋にわざわざカーテンをとりつけてくれた女。部屋に訪れてくるたびに、丁寧に掃除をしてくれる女。蒲団のシーツが汚れているからと、新しいシーツを買ってきて蒲団に延べ、古いシーツを持ち帰って洗濯してきてくれた女。そういう濃(こま)やかな気配りを自分に注いでくれている女。そのうえ、均斉のとれたしなやかな身体を、惜し気もなく自分に投げ出している。
 洋子に対して恋人という意識が持てないというけれど、では自分は恋人としてどういう女を想定しているのか。架空の女、いわばこの世に存在し得ない理想の女を心に追い求めて、あるいは自分の中の憂悶に思いをとらわれて、すぐ傍にいる真珠の心を持った女を見落としているのではないか。


 三週間以上ものあいだ、自分のことにかまけて、こちらからは電話もかけなかったのに、洋子は引越しの手伝いもできなかったと詫(わ)びてきている。そのうえ、カーテンの具合いも心配してくれている。洋子が自分に注いでくれている気配りに対して、自分はどんな気配りを洋子に注いできたろう。
 何もなかった。ただ自分を見つめてきたにすぎなかった。自分のことしか考えてこなかった。虫のいい利己主義者-それ以外の何であったろう。
 何かを忘れていないか。自分の内面ばかりでなく、他人の心を思いやる心を忘れていないか。人間にとって大事なものが、自分には欠けているのではないか。そんな人聞に、どんな道が拓(ひら)けるだろう。生き方を探るだって?生き方を探る前に、自分という人間に欠けているものを探る方が先ではないのか?……
 やがて、向かいの家の小さな煙突から、風呂を沸かす薪の煙が立ちのぼりはじめた。ということは、もう四時になっているということだ、と思いながら机の脇の時計に目をやると、果たして時刻は四時を五分とすぎていなかった。
 栗の木の向こうの、塀を隔てた隣家の生盾ぶりはじつに規則正しかった。四十代なかばぐらいの夫婦と、中学生の一人娘の三人家族で、たまに顔を見かけるだけで言葉も交わしていないが、静かで、そして平和の家庭であることは、毎日午後四時になるときまって風呂の煙突から煙が立ちのぼる-それだけで推察された。
 どこかの会社に勤めているらしい夫は、定刻通りに帰ってくる。奥さんは、定刻通りに風呂を用意して、夫の帰りを待っている。
 つつましいながらも、平和な団らんの光景が目に見えるようだった。日曜日には、亭主は日除け帽をかぶり、庭いじりに専念する。祥一の実家とはまるで違う雰囲気が向かいの家には感じられた。そして、そういう静けさ、平和さは、彼が子供の頃から求めてきたところのものであった。

1984年8月22日4面掲載


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