あくる日は、また梅雨空に舞い戻り、暗い雨が朝からじくじくと降っていた。
祥一は、朝九時すぎに目醒めた。
階下の洗面所に降りて行くと、岡田がそこの小さな鏡に向かい、髭を剃(そ)っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
洗面所の反対側が共同炊事場になっていて、そのすぐ横が伊吹の部屋のA号室である。ドアは閉じられ、中からは何の物音もきこえなかった。まだ寝ているのだろう。
「ゆうべは、どうだった。勝ったかい」
歯ブラシの上に、チューブの歯磨き粉を押し出しながら祥一はきいた。
「いやあ、駄目でした。ここんところどうも調子が出ません」
剃り終った顔を、岡田は水道の水で洗った。タオルで顔を拭き、窓の外に目をやった。
「また雨ですね。なかなか梅雨が明けませんね」
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「さっきのラジオのニュースによると、近畿地方はもう梅雨が明けたそうだ。東京ももうじき明けるだろう」
「早くスカーッと晴れ上がって貰いたいですね。こういう雨は、気が滅入ってしようがない」
岡田はそういって二階に戻って行った。岡田も、気が滅入ることがあるわけか、と思いながら祥一は歯を磨きはじめた。こういう雨は好きですねえ、といったいつかの伊吹の言葉が胸をかすめた。
昨夜、伊吹は、石塀にもたれてしばらく涙を流したあと、こんどはしっかりした足どりで歩き出した。手の甲で涙をめぐい、
「いや、どうも、醜態をさらしちゃって……」
祥一は、かけるべき言葉を見出せなかったので、黙ったまま歩いた。やや歩いてから、気分を転ずるように、
「君は、どうして留年することにしたんだい」
とたずねた。
「ひとりになりたかったからだ」
「安保と関係があるのかい?」
「安保?」
「君も安保には反対じゃなかったのかい」
「いや、反対も何も、俺は安保問題には関心がなかった」
女子学生が一人死んだほどの大騒動だったのに、伊吹は安保問題に関心がなかったというのだろうか。学生自治会の委員をしていたからには、伊吹は当然安保反対運動に熱心だったと思っていたが……。
「だって、君は自治会の委員だったんだろう」
「委員は二年でやめた。それに、委員といったって、ほとんど名目的なものでね。俺が何かいったって、ちっとも意見が通りやしない。自治会の中にいても、俺はただの傍観者にすぎなかった」
風が強く吹きつけてきた。伊吹は空を見上げた。涙を流したあとのせいか、さっぱりした顔をしていた。酔いもすでに消えてしまったかのようだった。
「そう、俺は安保問題には関心がなかった」
伊吹は繰り返した。
「安保がどうなろうと、日本がどうなろうと、そんなことは構わないと思っていた」
その言葉は、祥一には、ヤケというより、過激にきこえた。祥一は黙っていた。
さっきの伊吹の突然の涙が、まだ祥一の中で波紋を残していた。
<伊吹は涙を知っている>
祥一は、伊吹にいちだんと親密なものをおぼえていた。
1984年8月9日4面掲載