2006年9月28日、ニューヨーク・マンハッタンの国連本部。第8代事務総長を選ぶ3回目の予備投票が行われた。立候補した韓国の潘基文・外交部長官(当時)の結果は賛成13票・棄権1票・反対1票。次期事務総長の座を得るには反対1票を棄権か賛成に変える必要がある。
投票ののちボルトン米国国連大使は大島賢三・国連大使に会っている。ボルトン大使が翌年出版した自叙伝で明らかにしたところによると「日本に(潘基文)反対を再考してくれるよう頼みに行ったし、大島大使も反対投票した事実を否定しなかった」。
ボルトン大使の説得が功を奏してか、4回目の投票では反対はなく、棄権が1票あったものの「全員賛成」で潘基文・次期事務総長が内定した。予備投票での3回目の反対と4回目の棄権は、日本ではないか、との観測は、外交筋の間では「公然の秘密」と言われている。日本はこれに対して否定も肯定もしなかった。
振り返れば、韓国も日本に恨みを買う行動をした。前年の2005年、国連で日本の常任理事国入り実現を、ありったけの外交力を「発揮」して反対した国のうちのひとつが、ほかでもない韓国だった。韓国はイタリア、アルゼンチン、スペイン、メキシコなどと「コーヒークラブ」と呼ばれた「常任理事国(数)拡大反対の加盟国の集まり」を結成した。
当時、韓国が日本の常任理事国進出に反対した決定的な理由は独島、教科書記述歪曲など歴史問題だった。しかし隣国でありデモクラシーと市場経済を共有してきた「同盟国」である日本の動きを、歴史問題で反対したのは、理性的ではない感情的な外交を展開したという韓国の「恥部」を露わにしたことになる。
2003年にスタートして、わずか1年足らずで膠着状態に陥った韓日FTA交渉。最大の争点は、日本の農水産物市場開放範囲だった。当時盧武鉉大統領が「絶対譲歩不可」とした農業部門の韓国全GDPに占める割合は3%に過ぎなかった。両国の経済団体は韓日FTAが相互経済発展に大いに寄与すると支持していた。
国内自動車産業も市場開放に反対したが、発効4年後には韓国経済にとってプラスになるとの分析も出ていた。にもかかわらず、第1次交渉は、主に農業問題をめぐって頓挫してしまった。両国の交渉当事者が「実利」ではなく「名分」をめぐる「ケンカ」に終始したうえの破局だった。
韓国と日本が共有する「共通分母」はないのか。お互いに役立つ存在であるという事実は、両国民ともが認めるところだ。韓米日安保協力体制も、東西冷戦時代に構築されたものとはいえ、いま現在も有効な体制だ。両国は安保次元から同盟関係になったが、この半世紀、自由民主主義と市場経済を信奉してきたし、ほとんどすべての社会分門で密接に連携してきた、といえる。
駐日大使も務めた孔魯明・元外務部長官は「両国は『同盟中の同盟』という事実を基本にして、関係を発展させる努力を意識的かつ一貫性をもって傾注しなければならない」と強調する。
なおかつ隣国同士という両国の関係は不変だ。孔・元長官は「隣が憎いからと、韓半島を太平洋の真ん中に移すことはできない。良くても悪くても、韓国と日本は共存するしかない関係だ」と力説している。
韓日協力のモデルはいくらでも見つけることができる。
1965年の韓日条約締結。交渉期間が実に14年という世界歴史史上最長の国交交渉ののち交渉は妥結した。「屈辱外交」との国内世論の猛反対のなか国交が正常化したのは、韓国政府と朴正煕大統領の力強い意志があったからだ。いまもって金額に論難はあるが無償5億ドル、有償借款3億ドルの計8億ドルを韓国に支援した日本政府の決断も高く評価する必要がある。
金鍾泌・中央情報部長(当時)が大平外相と合議していた当時、日本の外貨保有高は16億ドルに過ぎなかった。日本も自国の半分近い外貨を韓国に支援するという関係改善への力強い意志を見せてくれたのだ。
1968年操業した浦項製鉄所(現・POSCO)が、今や世界第2位の鉄鋼会社に浮上したことや、ソウル地下鉄建設、現代自動車のグローバル企業への発展などは、日本の技術および資金援助がなかったなら不可能だった。
韓国が成し遂げた産業近代化の象徴である「漢江の奇跡」は、日本の経済協力が作用したことを否定するのは困難である。
日本には、このような自分たちの寄与を韓国人は認めようとしないという人々がいる。しかし韓国にも自らを反省する声が厳然と存在する。「地球上で日本をおこがましく見る唯一の民族が韓民族」という“軽日”の雰囲気もあるにはあるが、日本を永遠のパートナーにしていこうと努力する人々が大きく増えたのも、また韓国の現実だ。
これまでの韓日関係は「順風に乗って進んでいると思いきや、突然暴風にさらされる船」のような航海を繰り返してきた。その原因の核心は歴史問題である。結び目を作った者が結び目を解かなければならないという「結者解之」のことば通り、こと歴史問題に限っては日本が前向きに出なければ解決しない。
2001年12月、明仁天皇は記者会見で、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であり、天皇家が韓国系の血統であることを明らかにしたことがある。宮内庁が準備したシナリオにはない発言をしたわけだ。
本紙2005年8・15特集号の対談で、明仁天皇の学友だった橋本明氏が1990年の盧泰愚大統領訪日時、明仁天皇から次のような心境を吐露されたことを明らかにしている。
「自分が韓国に行って、過去の国(日本)の過ちを自ら自分の口で言うことは容易い。おそらく理解されるであろう。でも大韓民国から日本に大統領を迎えて、日本で話をして、本当にその方にわれわれの心が通じるだろうか、通じてほしいものだが、通じさせることは難しい……」
明仁天皇は日中国交回復20周年の1992年、中国を訪問した。国交樹立から44年が過ぎた韓国を訪問する動きはない。4年前、橋本氏が本紙の対談で明らかにしたとおりなら、明仁天皇は20年前から訪韓の意恩を持っていたと見ることができる。
全斗煥大統領の訪日以来、韓国の歴代大統領は訪日時に必ず明仁天皇の訪韓を要請してきた。しかし日本側はそのつど機が熟していないとの理由でためらってきた。もっとも良いタイミングといえた2002年ワールドカップ韓日共催の際にも、実現しなかった。
来年2010年、韓日併合から100周年を迎える。体制と理念の異なる中国を訪問した明仁天皇の、解放(日本の終戦)以来、体制と理念はもちろん社会全般のシステムまで共有してきた韓国の訪問が実現していないのは、やはり異常な姿といえよう。
過去のいつよりも韓日間に温かい薫風が吹く今こそ、明仁天皇が韓国を訪問し、歴史問題に終止符を打つ時と言える。訪韓が延びれば延びるほど「天皇の躊躇」はすなわち「日本の(韓国に対する)忌避」という韓国民の認識が形成される公算が大きい。(ソウル=李民晧)