新・韓日協力時代―共通分母を探して①

韓日併合から100年を来年に控えて
日付: 2009年08月15日 00時00分

  韓日関係にいつもより、温かな薫風が吹いている。腰砕けになっていた両国シャトル外交は復元されたし、先行き楽観はできないが、韓日自由貿易協定(FTA)締結交渉も再開されようとしている。また皮肉にも北朝鮮の「核」「ミサイル(テポドン2)」も、両国間の連携・協力がよりいっそう緊要であることを韓日両国民に知らしめてくれた。
 いま「新・韓日協力時代」の幕が開こうとしている。
 しかし今まで私たちは、順風だった両国関係が、一瞬にして冷却化することを再三再四体験してきた。来年には韓日併合100周年を迎えるが、新・韓日協力時代の幕開けにあたって、解いておかなければならない課題、そして韓日両国民が共有すべき「共通分母」を捜してみたい。
 蜜月に近いほど、韓日関係が急速に回復したのは、李明博大統領の功績ともいえる。彼は2年近く前、大統領選挙に当選するやいなや、当時の福田首相に特使を送り、両国間シャトル外交復活を打診した。約束通り、1年半まえ大統領に就任した後は、日本国首相と2、3カ月に1回ずつ首脳会談を持っている。北朝鮮情勢が緊迫していたためとはいえ、6月28日には40年余の両国外交関係で初めて日帰りで、東京に麻生首相を訪ねた。
 「今回の訪問は(日帰りの)文字通りのシャトル外交です。それほど両国関係は深くなったということです。昔なら日帰り訪問は、冷遇し冷遇されたものとされましたが、いまや両国(首脳)は気軽な気持ちで会えるのです」(同日、東京で李明博大統領)
 このように日本とは親しく関係をもとうとする意思が固い李明博大統領だが、一時は日本を訪れることも出来なかった苦い経験も持っている。ソウル市長在任(2002年7月から4年間)当時、姉妹都市でもある東京を一度も訪問することができなかった。大阪生まれということに加え、現代グループ時代には故郷を行き来するかのように頻繁に日本を訪れ、どの政治家よりも日本と縁が深い李明博大統領からすれば、意外で理解しにくいことだった。
 ソウル市長当時、両国関係は独島(竹島)領有権問題、歴史教科書問題で悪化する一方だった。しかし首都・ソウルとはいえ一地方自治体首長だったから、外交環境的要因が東京訪問に二の足を踏ませたとは考えにくい。
 むしろカウンターパート格である石原慎太郎知事の存在が、その主因である可能性が大きい。韓国民はその言動から、石原氏を「極右」の代表格とみなしており、いまでも韓国政界では彼との接触を忌避している。石原氏は韓国で、自国の利益のみを追う国粋主義者の烙印を押されており、実際、韓国に関わる同氏の発言は、韓国民からすると妄言だった。
 韓国では、石原氏は知事になってから米国には5回、台湾には6回、欧州には3回、そして東南アジアにも3回足を運びながら、韓国訪問は一度もないことが、マスコミで報じられるほどだ。 アジアを代表する大都市であり、と同時にもっとも近い友邦国首都の首長同士が「出会い」を持つことができなかった事実は、それほど韓日関係が複雑で解決が困難な課題を抱えていることを如実に物語っている、といえよう。
 李明博大統領は市長を退任した直後の2006年11月、さっそく東京を訪問し、日本の知人たちに会うとともに東京大学で講演もした。李明博大統領が4年間の市長時代、日本に行かなかったのではなく、行こうにも行けなかった、というのが真相ともいえそうだ。(ソウル=李民晧)


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