「李中道」と「朴神秘」

日付: 2009年07月27日 02時23分

柳根一
民主党の朴智元議員、李康来議員、朴柱宣議員が口をそろえて、朴槿恵氏を「日和見主義者」と罵倒した。筆者はここで朴槿恵氏が本当に日和見主義者なのかどうかを問うつもりはない。ただこれを契機にして、李明博大統領と朴槿恵氏に言いたいことが一つある。二つの陣営が原理原則の問題と関連して尖鋭に対立している状況では、両側から同時に非難される言動をするのは「商売にならない」ことが明らかになったではないかということだ。
李明博大統領は「朝つゆ論」、「中道強化論」、「黄晳暎重用」で左派の一部から歓心を買うどころか、左右両方から酷評された。朴槿恵氏も「メディア法」の国会通過過程で、ああ言ったりこう言ったりして言葉を変えたと左右から批判を受けている。これは何を意味するのか? 一言で、中間級でも下位級でもない最高指導級は、原理原則に透徹して正直にものを言うべきで、弁才や曖昧な身持ちで両方から同時に歓心を買おうとしたら、むしろ損害を被ることを教えてくれるのだ。
執権者は政策の選択において偏らず、中心(center)を目指さねばならないということと、一貫した人格的原則の堅持者でなければならないということとは別個のものだ。その二つを混ぜて、指導者はカメレオンの顔をしなければならないというふうに錯覚してはいけない。オバマ大統領やクリントン国務部長官が北韓の核とミサイル問題に対して一貫した原則を公然と表明するのを、「中道主義者」の李明博大統領と「神秘主義者」の朴槿恵氏は果たしてどう見ているのか知りたい。
李明博大統領が憂慮する「左右の区分が行過ぎること」、そして朴槿恵氏が憂慮した「言論の多様性への侵害の憂慮」というのは、言葉自体としてはもちろん言えない話ではない。しかし、例えば「メディア法」をめぐる与野党間の国会の騒乱事態だけを見ても、李明博政府自らが「中道」を保とうとしても出来なかったことを雄弁で告白したのではないか? なぜ李明博大統領の持論である「中道的に」やらず、全力を傾けて強行処理をしたのか? そこにはそうするしかなかった不可避な理由があったのではないか? わが社会の左右対立がそこまで激しくなったのもそれと同じだ。
筆者は、最高統治権者である李明博大統領の苦労と、最高統治権者になりたい朴槿恵氏の苦衷を充分察している。その一方でお二人に注文せざるを得ないのは、最高指導者というのは単純な政治的地位である前に、全国民の師表の役割をする座であることを認識してほしいということだ。師表とは何か? まさに、一貫した道徳的な高潔さ(integrity)を示す役割だ。これもあれも全部であるかのようで、どちらでもない曖昧性の技巧は、下位の政治家たちがやる真似であって、「最高」はそうしてはいけない。「最高」は正径大道を堂々と歩かねばならない。李明博大統領と朴槿恵氏がこの話を不快に思わず、心に刻んでほしい。
 
柳根一の耽美主義クラブ http://cafe.daum.net/aestheticismclub 2009.07.24 21:05

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