連載14 ―打算と差別を嫌った朴正熙
朴正熙が砲兵学校の校長だった当事、教育次長を務めた呉ジョンシク中佐(陸軍准将予備)は、校長のとある訓示を今でも覚えている。
「尉官将校は足で、佐官は頭で、将軍は度胸で仕事をするものです。尉官は兵士たちと常に寝食を共にし、自らの足を使って仕事をすべきです。佐官将校は知恵を絞り、自分の分野に専念して情報を収集します。それを更に分析し、上官に『A案・B案』といった形で提示した後、各々の利点と欠点を説明します。その上で『私はこういう理由で○案を推薦します』と建議できなければなりません。つまり、佐官将校は専門家的な見識を持ちつつ、参謀として指揮官の補佐役となる必要があるのです。将軍は、参謀から推された案を選び、後は度胸で進むのみです。将軍は管理者であって技能者ではないのです」
毎週月曜の午前、校長室で参謀会議が行われた。会議が始まって約1ヶ月が経過する頃には、会議は「参謀らが冷や汗を流す時間」になっていた。朴正熙は大声や罵声こそ浴びせなかったものの、部下たちは緊張のあまり動けなかった。例えば、燃料オイルの現状について参謀が報告すると、朴正熙はこう切り返すのだ。
「おい、先週は232缶も残っていて、今日まで特に消費することもなかったのに、なぜ在庫が212缶しかないのか。後の20缶はどうしたのか?」
数字に対する記憶力が突出していた朴正熙の質問について、誰も曖昧に濁すことはできなかった。「現状把握を怠った、ミスをした」などと認めるか、朴正熙が納得できるほどのウソを捻出しなければならなかった。このため、1ヶ月後からは全参謀らが現場を奔走しながら状況を確認し、その内容をチャートに記録して会議に持参した。ほぼ全ての参謀らが冷や汗をかく羽目になったが、やがて皆が校長を尊敬した。朴正熙が最も嫌ったことは打算だった。後に祖国近代化作業の行動哲学となる「朴正熙式仕事術」とは、業務の本質へ具体的に迫るというものだった。当時の砲兵学校では、論山訓練所で4週間の訓練を受けた新兵たちを連れ、砲兵団で更に4週間の教育を受けさせていた。彼らは運転教育が必須科目だった。運転教育用として、日産製のトラック15台が用意されていた。ある日、朴校長は呉ジョンシク教育次長に尋ねた。
「新兵たちがここで訓練を受けた後は、すぐに戦地に配置されて砲車を操縦しなければならない。新兵たちが運転教育実習でハンドルを握ることのできる時間は何時間程度なのか?」
「調べて報告します」
「それから、民間の教育場でハンドルを握る時間も知りたい」
呉中佐は「余計なことまで聞かれる」と思ったが、すぐにその質問の重要性を理解した。調査の結果、新兵らがハンドルを握る時間は1時間にも満たなかったのに対し、民間では免許を取得するまでにおよそ15時間も運転実習をしていたのだった。この事実を報告すると、朴正熙校長は再び指示を出した。
「では、民間レベルまで教育水準を引き上げるために、追加で必要となる期間、車輌数、燃料の消耗量、そして予算を算出して報告してください」
呉中佐は、追加リストを作成して校長に提出した。朴正熙は陸軍本部会議に出席してこれを建議したものの、残念ながら却下された。
光州砲兵学校長の朴正熙准将は1955年4月24日、学生大隊の中隊長・崔忠烈大尉の結婚式で仲人をつとめた。学生隊長だった洪鍾哲(青瓦台警護室長、文化観光部長官歴任)中佐が朴校長に仲人を依頼していたのだ。
朴正熙は「北出身の崔大尉にとって、家庭を築くことで精神的に満たされることだろう。同僚たちは、今後も崔大尉を積極的に支えるように」と祝辞を述べた。
崔大尉によると、朴正熙校長は米軍からもらった非常食で洋風の朝食を作り、将校らに振舞ったという。また、他の部隊と同様に、砲兵学校でも厚生事業を行っていた。部隊のトラックを和順の伐木業者に貸し、収入を得た。朴正熙校長はその収入を公開し、公正に分配した。階級ごとに定めた金額を封筒に入れ、参謀らに直接手渡した。また、トラックの賃料を薪と引き換えにしたこともあった。朴校長は、この薪を練兵場に積み、個人への配分比率を計算し、越冬用として将校らに持ち帰らせたこともある。
砲兵学校で朴正熙は、その後25年間のパートナーとなる人物らと出会った。当番兵の朴煥榮一等兵と、運転兵の李他官上等兵だ。朴一等兵を推薦したのは、行政処の李洛善(故人。国税庁長、商工部長官歴任)少佐だった。朴煥榮は「怖そうで、話しかけるだけでも精一杯だった」という朴正熙が、実際は大変繊細で人間味豊かな人物であったことに驚いた。
朴正熙は朴煥榮に対し、はじめの2ヶ月間こそ「朴兵士」と呼んでいたものの、その後は「煥榮!」と呼んでいた。また、朴正熙に故郷を聞かれ、「沃川です」と答えると「沃川か。私の義父を知っているか」と返したという。朴正熙は「会えてよかった」と歓迎し、勤務後には朴煥榮一等兵を官舎に連れ帰った。官舎は木造で、広くて古い日本式の建物だった。応接室と浴室があり、以前住んでいたソウルの家よりはずっと良い環境だった。陸英修と槿惠は、当番兵の朴煥榮を「おじさん」と呼んでいた。庭には3・4本のヒノキが並び、木の下には卓球台が置かれていた。朴正熙と陸英修は日曜日ごとに卓球を楽しんでいた。朴正熙は当番兵を決して使用人扱いすることはなく、家族のように接した。新堂洞の朴正熙私邸で、最近まで管理人を務めていた朴煥榮はこう語った。
「あの方は、いくら失敗しても最初の1・2回は指摘すらしません。同じ失敗を3回すると、はじめてチクチクと責めるようです。ただ、私はこれまでそのような責め方をされたことはありませんでした」
朴正熙は当事、煙草「孔雀」とコーヒーが好きだった。そして、本を常に手放さなかった。10.26事件が発生するまで運転兵として務めた李他官上等兵(故人)は、「これほど長い間、良い関係を保つことができたのは彼が差別をしなかったからだ」と話していたことがある。朴正熙は酒を飲みに行くときも、むやみに外で待たせるようなことはせず「○時までにまた来てくれ」などと気遣った。李他官、朴煥榮の2人は官舎の1部屋で暮らし、陸英修が作った食事を食べていた。
(翻訳・構成=金惠美)