朴正熙 逝去30周年記念連載⑩ ― 戦乱中の結婚

「新郎、陸英修君と新婦、朴正熙さんは・・・」
日付: 2009年05月27日 00時00分

連載10 結婚を反対する夫と別れ、娘を応援した母・陸英修

 
 
 妹の陸イェスは、父の陸ジョングァンからひどく怒鳴られた。陸英修は、改めて父を説得しようと父の部屋に入った。すると陸ジョングァンは「大田に行く」と言い、家を出てしまった。大邱に発てないまま、母娘は2時間ほど待った。陸英修は「せめて挨拶だけでもしていくべきよ」と、続けて待とうとしていた。妹のイェスは「父さんの反対を押しのけて結婚してしまうのもロマンティックじゃない?」と、出発を促した。母、李ギョンリョンも続けた。
 

 

 「お父さんがあなたの結婚について本気で心配しているところを見たことある?さあ、2人で先に行きなさい。私は明日、お父さんを連れて行くわ」

 

 
 陸英修、イェス姉妹は軍用のパーカーを羽織り羽織り、ソン・ジェチョン中尉が運転するトラックの荷台に乗り込んで大邱へと出発した。先の件で苛立っていた陸英修は、車内で激しい胃痙攣を起こした。イェスが姉の腹をさすってみたが、一向に痛みはひかなかった。夜10時、2人の姉妹は大邱の三徳洞にある李正雨の別宅に到着した。この家は、9師団の司令部が大田から大邱に移転した頃、朴正熙中佐が借りた家だった。朴正熙は腹痛の陸英修をとりあえず寝かせたが、結局、陸英修は違う家で一晩を過ごした。まだ正式に結婚したわけではなかったからだ。翌日、つまり19501211日―。陸英修は妹を連れて美容院に行った。英修は、昨夜の胃痛でひどくやつれた自分の顔に驚いた。イェスは「姉さん、明日が結婚式なのにどうするのよ」と半べそをかいていた。姉妹の母、李ギョンリョンは、午後に1人で大邱にやってきた。前日の夜中に帰ってきた夫とケンカになったという。ただ、2人のケンカはいつもながら非常に淡々としたものだったようだ。
 
 

 2人は壁を隔てた隣同士の部屋に座って会話を交わした。陸ジョングァンが「家柄も調べないで娘をやる親がどこにいるんだ」と声を荒げると、別室の李ギョンリョンは「英修があんなに気に入っているんだからいいじゃないの」と返した。夫が妾を5人も家に入れた時でも従順だった李ギョンリョンにとって、こうした「冷静なるケンカ」でさえもかなりの挑戦だった。

 

 翌早朝、大邱への出発時、李ギョンリョンは心を決めていた。夫・陸ジョングァンと別れて娘の味方をする、というものだった。この日以来、2人は事実上の別居状態に入った。陸ジョングァンは、ソウルの社稷洞で余生を送り、李ギョンリョンは陸英修と一緒に暮らした。

 

「従順な女性」の典型といえる李ギョンリョン・陸英修母娘が、陸ジョングァンに反発した。それは、浮気男に対する嫌悪感や憎悪心が、長い間彼女たちの心に鬱積した結果、「共同戦線」という形で表れたのだろう。
 
 
 後日政権を握った朴正熙は、賄賂授受などの不正を取り締まるため、近親者たちの自宅周辺に警察官を配備し、監視させた。警察は陸ジョングァンの自宅前でも陣を組んだ。「婿の分際で俺を監視しようとするのか」などと憤慨した陸ジョングァンは、李ギョンリョンが頻繁に出入りしている親戚の家を訪ねた。
 
 
 「こちらに君の外淑母(李ギョンリョン)がよく遊びにくると聞いた。俺は独立運動をしているわけでもないのに、刑事たちが自宅前に座り込んでいるからうっとうしくて仕方ない。俺から英修に電話することはできないから、君の外淑母に『頼むから刑事を来させないでほしい』と伝えてくれ」
 

 これが朴正熙に伝わり、陸ジョングァンに対する監視は解かれた。

結婚式―間違えられた名前と消えた指輪

 

 
 朴正熙と陸英修の結婚式は、12月12日の午後、大邱桂山洞の天主教聖堂で行われた。朴正熙の親族側は、兄の朴トンヒ、甥の朴ジェソク、朴ヨンオクが出席した。大邱市長のホ・オクが仲人席に立つと、モーニングを着た朴正熙中佐がギクシャクとした歩き方で入場した。陸英修は、花かごを抱えた2人の少女に先導され、朴正熙の大邱師範学校時代の恩師である金ヨンギ先生に手を添えて入場した。陸英修の介添人は、金ジェチュン中佐の夫人、チャン・ボンヒと陸イェスだった。
 
 

 仲人だったホ・オクだが、実は新郎新婦との面識がなかった。彼は祝辞の冒頭で「新郎、陸英修君と新婦、朴正熙さんは・・・」と間違え、場内は笑いの渦に包まれた。

 

その頃、ソン・ジェチョンの顔は真っ青になっていた。ソン中尉は、金ジェチュンから新婦用の金の指輪を預かっていた。
 

 

 彼は、指輪ケースがあまりにも大きかったため、指輪だけを取り出してポケットに入れておいた。しかし、婚礼品交換の時間が近づき、指輪を探したが見つからなかった。焦ったソン・ジェチョンは、金ジェチュンにカネを借り、会場を飛び出した。新たに金の指輪を購入し、なんとか婚礼品交換の時間に間に合った。後に、ソン中尉が落ち着いて指輪を探したところ、時計を入れるための袋に入っていたという。

 
  また、朴正熙の恩師・金ヨンギは次のような祝辞を述べたようだ。

  

 「晴天の空に天高く雁が悠然と舞う、今日のこのよき日。新郎・朴正熙君と新婦・陸英修さんの2人は、新郎の堅固で誠実な品格と、美しい新婦の柔らかさが交わり、互いに助け合い、青い水辺を漂う1対のおしどりのように暖かい巣を作ることを願い・・・」

  

 結婚式の準備に協力した大邱師範学校の同期生、李ソンジョは当時をこう記憶している。

  

 「参列者は比較的多い方でしたが、披露宴そのものはこじんまりとしていました。戦乱のさなかだったため、華やかなものは何もありません。同期生たちは徹夜で披露宴を準備しました。といっても、高砂席の後ろに栗、なつめ、イカを盛り付ける程度です。それでも、純粋な友情によって作られた一席でした。この日、我々同期たちはある約束をしました。『朴正熙の新婚生活を手助けすることはできなくとも、2人の邪魔になることだけはやめよう』というものでした。結婚式が終わると我々は解散し、各々の生活に戻りました。戦争中で、皆が自分のことで精一杯だったのです」

 

 結婚式の翌日、朴正熙自身も師団司令部に出勤した。「新婚旅行」という概念に乏しかった時代だった。朴正熙が新居として借りた家には、3つの部屋があった。1番大きい部屋は朴正熙が使った。2つめの部屋は李ギョンリョンと陸英修・陸イェス母娘が使い、3つめの部屋は運転兵と副官に使用させた。家には台所がなかったため、陸英修はイェスと共に玄関を改造し、台所をつくった。

 
 

 朴正熙は、仕事を終えて家で食事をするときは義妹とよく会話をした。彼は妻を「英修」と呼び、妻は「あの・・・」などと濁していた。朝、朴正熙が目を覚ますと、妻は洗面器に湯をためて待っていた。陸英修は常に髪をきっちりとまとめ、薄く化粧をしていた。陸英修は、家の中でも決してだらしない姿は見せなかった。朴正熙は、ようやく安定した家庭を得ることができたのだ。

最近公開された朴正熙元大統領のプライベート写真。右が朴英修夫人。(写真=国家記録院)

 

(翻訳・構成=金惠美)


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