趙甲済
言論が「盧武鉉自殺」を「盧武鉉逝去」と表現している。「逝去」は国語辞典によれば「死去」の敬語だ。「亡くなった」という意味だ。言論では社会的に尊敬される元老や前職大統領が死んだ時、逝去という表現を使ってきた。朴正煕大統領(当時)が、「10.26事件」で金載圭によって殺害された時も言論は「逝去」と表現した。こういう表現法が果たして正しいことなのかを検討してみる必要がある。
盧武鉉前大統領の死を「逝去」と表現することに対して不満を持った人が多い。彼の死を罵倒してのことでない。「逝去」という言論の用語の選択が、盧武鉉前大統領を尊敬しない人々にまで「哀悼」を強制する「誘導性」であるからだ。
盧武鉉勢力が作った「ヨルリンウリ党(開かれたわが党)」という党名は、この党の党員でない人々にまで、「ウリ党(わが党)」と読むようにする一種の詐欺的作名だった。
盧武鉉前大統領が、死を選択した過程と悩みに対しは同情し、残念に思わざるを得ない。ところが、死を政治的に利用するにおいて天才的なノウハウを持った親北左翼勢力と、決定的な瞬間で時々理性を失う症状のある韓国の言論らが力を合わせ、盧武鉉氏の死を、憎悪と葛藤の巫女祭りに追い立てて利用する可能性がある。言論がいっせいに「逝去」と表現し始めたのがその前奏曲になるかも知れない。
6年前、鄭夢憲前現代グループ会長が、対北送金事件の捜査を受ける途中自殺した時、言論は「鄭夢憲会長自殺」と報道したのであって、「鄭夢憲会長逝去」とは報道しなかった。盧武鉉前大統領から悪口(侮辱)を聞かれて自殺した前大宇建設社長に対して、「南相国逝去」と報道した言論なら、「盧武鉉逝去」と報道する資格がある。
言論は客観的かつ普遍的で、平等な用語を使わねばならない義務がある。「逝去」を前職大統領専用とすることは、階級的特権を認めない憲法精神に合わない。1987年以後、現職大統領にまで「閣下」という言葉を使わないことにした国なのだ。
「盧武鉉自殺」が、けちを付けられない用法だ。彼の死に対する思いは、個人ごとに異なるはずで、民主国家では異なるべきだ。一人の死に対して考えが異なり得る権利を剥奪する「逝去」という用語は、非言論的で非科学的であり非民主的だ。
「盧武鉉自殺」と書いてこそ、盧武鉉前大統領の死に対して、人々が深く考えられるようになるはずだ。「盧武鉉前大統領自殺で逝去」と書く方法があるが、「自殺」と「逝去」という言葉がよく合わない。
朝鮮日報の社説は、死去という表現を使った。別世という表現も逝去よりは無理がない。要するに死者の身分による差別的表現は、平等でも、民主的でもないということだ。