朴正熙 逝去30周年記念連載⑧ ― 人生最悪のとき(下)

妙縁に導かれた「解放」
日付: 2009年05月18日 00時00分

 

 連載8(下) ― 拷問の日々

  朴正熙少佐が収監された場所は、今の新羅ホテル付近で、南山のふもとにある憲兵隊の営倉だった。朴正熙は、捜査に協力しようと決めていた。

 

 朴正熙は、捜査チーム長のキム・チャンリョン1連隊情報主任(少佐)に供述書を提出した。この供述書を読んだことのある唯一の生存者は、当時の陸軍本部情報局特務科長(少佐)だった金安一(陸軍准長予備)だ。金安一は、朴正熙とは士官学校の同期であり、20数年前はキリスト教の牧師でもあった。彼は次のように語った。

 

 「キム・チャンリョンに聞いたところ、朴少佐は拘束されるなり、『こうなる日が来ると思っていた』と言いながら供述書を書いたようです。供述書によると、大邱暴動に加担して殺された兄・朴尚熙の家を訪ねると、イ・ジェボク(南労働党軍事部責任者)が遺族たちを慰労していたというのです。イ・ジェボクは「共産党宣言」などの本を持参しては『兄の敵討ちをしよう』などと南労働党への加入を誘ったようです。供述書を読んだ限りでは、朴少佐は、理念的な共産主義者ではありませんでした。周囲の人間関係によって、或いは復讐心によって南労働党に入党したという感傷的な共産主義者だと感じました」

 

 朴正熙は、軍内にいる南労働党構成員たちの名前を多数挙げた。特に、朴少佐が中隊長を務めた士官学校内の南労働党分子については、さらに多くの情報を提供したという。
 
 朴正熙と親しかった陸軍本部情報局戦闘情報課のキム・ジョムゴン課長は、キム・チャンリョン少佐を呼び、手を出さずに捜査するよう依頼していたという。しかし、朴正熙はすでにひどい拷問を受けていた。
 

 供述書の内容が充実しているとはいえ、手を出さずに丁寧な捜査を行える雰囲気ではなかった。同年4月3日から始まった済州島4・3事件と、麗順14連隊の反乱事件で、軍内左翼は同僚軍人たちの多くを虐殺した。このことが、多くの捜査官をさらに手荒にさせた。

 

 粛軍捜査は基本的に「粛清」を主としていた。合法的な手続きと人道主義が立ち入る余地はほとんどなかった。
 

 朴正熙は、憲兵隊の営倉から西大門刑務所へと移送された。ここには、前軍で捕らえられた粛軍被疑者約1000人が2棟の建物に分かれて収容されていた。

 

 キム・チャンリョンは刑務所内に部屋を借り、常駐しながら尋問を続けていた。朴正熙少佐と同時期に拘束された金道栄(陸軍士官1期出身、陸軍大佐予備)がキム・チャンリョンの捜査室に呼ばれた。金道栄は、キム・チャンリョン少佐、李漢晋大尉などの捜査官らと対面した。部屋の隅では、誰かが電流による拷問を受けながら悲鳴を上げていた。朴正熙だった。「おまえも吐かないとああなるぞ」と脅すため、見せしめの拷問だったようだ。

 

 金道栄を尋問していた捜査官は「お前、このままだと死ぬぞ。とりあえず誰かの名前を挙げて、裁判では自分の罪を否認しろ」と忠告した。金道栄は生き残るため、同じ連隊の将校2人の名前を挙げた。この2人は直ちに拘束され、調査を受けて釈放された。金道栄も裁判で無罪宣告を受け、釈放されるなり共産党討伐要員となった。京畿道・仁川地区部隊の粛軍責任者は、特別部隊(軍総司令官支援業務担当)の情報所長、車虎聲少佐だった。
 

 彼は西大門刑務所で、キム・チャンリョンの捜査室の隣室を使用していた。ある日、キム・チャンリョンの部屋に入ると、朴正熙少佐が1人でうなだれていた。車少佐は、思わず彼に話しかけた。

 

 「朴先輩!どうせ自白するなら全部吐き出してください。正直に言えばすっきりしますよ。あまり心配しないで下さい」

 

 朴正熙は「もう全部話したよ」と答えた。朴正熙を尋問した人物は日帝時代の学生兵出身で、腕力も旺盛なイ・ハンジン大尉だった。彼は士官学校5期生として、当時の中隊長・朴正熙とは師弟の間柄だった。

 

朴正熙とは陸軍士官の同期でもあり、彼と親しくしながらもチェ・ナムグンに包摂されかけたハン・ウンジン大尉は、朴正熙を面会に訪れたことがあった。朴正熙は、無残な格好だった。水虫で困っていると言うので薬を買ってきてあげた。

 

 朴正熙が「南労働党分子である」と告げた人々の中には、後悔している者たちもいた。おそらく拷問に耐えきれず、虚偽の陳述をしたのだろう。陸軍航空士官学校(空軍士官学校の前身)の教授部長・朴元錫(空軍参謀総長歴任)大尉もそのうちの1人だった。1949年1月、朴正熙の担当捜査官だったイ・ハンジンが、士官学校5期の同期生だった朴大尉を連行した。航空士官学校校長の金貞烈(故人。空軍参謀総長、国防長官、国務総理歴任)は、日本の士官学校の4年後輩である朴錫大尉がそんなことをするはずはない、と確信していた。

 

 金貞烈は翌日、明洞に向かった。証券取引所の建物内にあるキム・チャンリョンの捜査本部を訪ねた。陰惨な雰囲気だった。捜査官の怒鳴り声や唸り声などが薄暗い廊下のあちこちで響いていた。キム・チャンリョンは関東軍の憲兵出身で、正規の日本陸軍士官学校出身者には忠実な傾向があった。

 
 「教授部長を『赤』だと決めつけるなど、どういうつもりだ」

 「いいえ。彼は赤に間違いありません」

 「証拠があるのか」

 「はい、あります。これを見てください」

 

 キム・チャンリョンはチャートを広げた。人の背よりはるかに大きなチャートだった。そこには、南労働党首脳部を頂点とし、下に向かってピラミッド式に広がっている南労働党の軍事組織表が書かれていた。

 

 よく見ると、ゴマ粒のような文字で組織員らの名前が書かれていた。朴元錫大尉の名前は朴正熙少佐の下に書かれていた。

 

 「朴元錫が一体何をしたというのだ」
 「はっきりとは分かりませんが、朴正熙の分子です」

 

 金貞烈は、朴正熙が陸軍士官学校57期として日本に留学している頃、58期の朴元錫と知り合った程度だと思っていたが、分子だと知らされ、ただ面食らうばかりだった。金貞烈は数ヶ月前の出来事を思い出した。

 

 航空士官学校の創設を主導する幹部7人が、陸軍士官学校で15日間の教育を受けた。担当の中隊長は朴正熙少佐だった。朴少佐は、日帝時代に多くの軍経験を積んだ金貞烈と朴範集を毎晩宿所に招き、酒と料理を振舞っていた。

 

 金貞烈は、朴正熙が満州軍官学校を首席で卒業したことを知り、彼を細かく観察した。噂通りの人物だった。しかし、その彼が左翼だとは。金貞烈が「朴元錫はもちろん、朴正熙少佐も私が見た限り赤ではないようだが・・・」というと、キム・チャンリョンは「いいえ。彼は確かです」と自信たっぷりに答えた。
 

 金貞烈は、朴元錫教授部長を助けるため、朴正熙の無実を証明しようと考えた。そこで、捜査責任者であるキム・チャンリョン少佐に再び尋ねた。

 

 「もし、朴正熙少佐が赤ではないことが証明されて、釈放されたらどうなる」

 「そりゃあ、朴元錫も自動的に解放されるでしょうね」
 「朴正熙が赤ではないなら、朴元錫は解放されるんだな」
 「はい、そうです」
 

 金貞烈は、陸軍参謀次長だったチョン・イルゴンを訪ねた。「満州軍の後輩である朴正熙が赤の容疑で捕まっている。ぜひ助けてやってくれ」と促した。

 
 「今、キム・チャンリョンは私まで赤だと疑って捕まえようとしているのに、そんな私にどうしろというのだ」

 「君は参謀次長だというのに、どういうことだ。一度詳しく聞いてみた方がいいのでは」

 「まったく!今はキム・チャンリョンの名前すら聞きたくないよ」

 

 次に金貞烈は、ペク・ソンヨプ陸軍本部情報局長を訪ねた。ペク大佐は、粛軍捜査の総責任者だった。ペク・ソンヨプ大佐も、金貞烈の要請に対して難色を示した。彼も「先輩、その話は勘弁してください。キム・チャンリョンは今、なんとか私を捕まえようとやきもきしているんです」と言った。(金貞烈回顧録より)

 

 これについて、ペク・ソンヨプ前陸軍隊長は「金貞烈氏が来て、朴元錫大尉を善処してやれ、と言われたことはあるが、朴正熙に関する話は出てこなかった。キム・チャンリョンは部下として私の指示に従う立場だった」と話している。

 

 金貞烈は、ソウル・龍山区の葛月洞に向かった。日本の陸軍士官学校5期の先輩だったチェ・ビョンドク准長の自宅を訪ねるためだった。彼は、今の合同参謀議長にあたる国防部参謀総長だった。金貞烈校長の話を聞き、チェ・ビョンドクはすぐにキム・チャンリョンを呼んだ。金貞烈はその間、他の部屋で待っていた。キム・チャンリョンと話を終えて帰らせた後、チェ・ビョンドクは金貞烈を呼び、こう話した。

 
 「キム・チャンリョンが言うには、朴正熙が南労働党のスパイだというのは確実だが、解放する手段はあるそうだ」

 

 キム・チャンリョンが提示した「解放する手段」とは次のようなものだった。

 
 「捜査官らが共産主義者らを捕えにいくとき、10回ほど朴正熙少佐を同行させ、先頭に立たせます。もし、朴正熙が南労働党の分子ではないなら、何のためらいもなくこれに協力し、疑いは晴れることでしょう。彼が共産主義者であっても、10回も裏切ればその世界からは追放され、転向せずにはいられないはずです」

 

 説明を終えると、チェ・ビョンドクは金貞烈に向き直り、尋ねた。

 

 「朴正熙少佐がこれに応じるかは分からないがね」

 「もちろん応じると思いますよ」

解放と妙縁

 

 翌日、金貞烈は再びキム・チャンリョンを訪ねた。朴正熙がぜひ捜査に協力すると言ったというのだ。また、実行し終えるまでに半月はかかるとのことだった。キム・チャンリョンがいくら粛軍捜査の実力者だとしても、朴正熙を意のままに解放するわけにはいかない。しかるべき手順は踏まなければならなかった。

 

 全国規模で行われていた粛軍捜査の統括者は、陸軍情報局の特務科長、キム・アニル少佐だった。この特務科は「SISSpecial Investigation Section)」と呼ばれた。
 

 この科は、陸軍特務隊として拡大された。この部隊が、後に防諜隊、保安司令部へと姿を変えながら、2人の大統領、2人の情報部長を輩出することになる。つまり、韓国の現代史を司る権力機関として、歴史の転換期における中心的役割を果たすのだ。キム・アニルは、現在の朝鮮ホテル近くに置かれていた特務科事務室に朴正熙を呼び、直接尋問した。

 
 「彼は自暴自棄でもなく、かと思えば『生』に特別な執着があるわけでもなさそうだった。意識的に落ち着いているフリをしているわけでもない。そこで私は、朴正熙を解放しようとペク・ソンヨプ局長に提議しました。自分の組織内について明かす共産主義者は、去勢された内侍のようなもので、解放しても問題ないだろう、との判断でした」
 

  ペク・ソンヨプ局長は、キム・アニルの建議を受け入れ、朴少佐を面談した。キム・アニルが手錠をはめた朴正熙をつれて情報局長室に入り、ペク局長の横に腰掛けた。

 
 3ヶ月前、ペク・ソンヨプが麗順14連隊で反乱軍討伐司令部の参謀長を務めていた頃、作戦将校を務めていたのが朴正熙少佐だった。向かい合った朴正熙の姿は凄然としていた。生死の岐路に立つ人間が生命を哀願する純粋な姿―。その姿こそがペク・ソンヨプを動かした。朴正熙は「助けてください」とペク・ソンヨプ局長にすがった。ペク・ソンヨプは、朴正熙のその言葉を聞き、「助けようとも」と心から答えた。ペク・ソンヨプ将軍は、その決定的な言葉が「心から」出たことを今でもはっきり覚えていた。

 

 「彼のその一言が、結局は彼自身を助けたのです。助けると約束をしたものの『どう助ければいいのか』と非常に悩みました。手順に沿って許可を得る必要があったからです。彼が生き残れた理由は簡単です。私と直接対面したからです。粛軍捜査の責任者である私は、誰からも朴正熙を助けてほしいと頼まれたことがありませんでした。当時、恐ろしいほどの捜査旋風が吹いており、誰も私に対してそんなことはいえなかったのです。私の前に座っていた彼のか弱い姿に心が動かされたのです」

 

 個人的なよしみでいうなら、本来はチェ・ナムグン中佐こそ、ペク・ソンヨプが助けるべき人物だった。チェ・ナムグンは奉天軍官学校の先輩であり、間島特設隊としても共に勤務してきた。共に38度線を越え、同じ日に官職に就き、軍番も前後していた。ペク・ソンヨプはしかし、粛軍捜査が始まると、逃げたチェ・ナムグンを逮捕するよう命令を下す立場となった。

 

 キム・アニルの記憶によると、キム・チャンリョンが朴正熙の救命理由書を兼ねた身元保証書を書き、一緒にペク・ソンヨプ局長の元を訪れたという。「ここに印鑑を押しなさい」とペク局長に促され、3人が朴正熙の身元保証人となった。赤いフィルターで世を見ていた粛清の鬼、キム・チャンリョンが朴正熙を助けたということは、現代史の裏に広がる数多くの「妙縁」のうちの1つだといえるだろう。

 

 1950年2月、朴正熙と同居していたイ・ヒョンランが家を出た。朴正熙は彼女を探し、四方をさまよった。イ・ヒョンランを紹介してくれたイ・ヒョ少佐夫人、卯さんに1通の手紙を預けた。

 

 卯さんがイ・ヒョンランを探し、朴正熙の手紙を渡したところ、彼女はただただ笑っていたという。イ・ヒョンランの生前の証言によると、家出した後、1度朴正熙に電話を掛けたという。
 

 朴正熙が自分に対し、「傲慢でダメな奴だ」などと悪口を言っていたとの噂を聞いた。怒ったイ・ヒョンランは朴正熙に対し「非紳士的な行動はやめて」と警告したという。朴正熙は官舎に1人残され、33歳の男やもめとなった。周囲の人々は、朴正熙が多くの友人らを裏切ってまで生き延びたという噂を聞き、彼の近くには誰も寄り付かなかった。朴正熙自身も、自責の念からか人との接触を避けていた。母親も、友人たちも、恋人も去った1950年の春は、朴正熙の生涯で最悪の時だった。

 

  この頃の朴正熙をごく近くで見ていたのは、陸軍士官学校2期の同期だった韓雄震中佐だった。当時は「韓忠烈」という名前だった彼は、韓雄震へと改名する時に朴正熙と議論を交わしたほど、まるで兄妹のように仲がよかったという。3連隊3大隊長として、麗順14連隊反乱事件の指揮者、キム・ジフェ、ホン・スンソクらを智異山で射殺した韓雄震は、中佐として特進し、情報局傘下の防諜部隊(CIC)本部長に就任した。この部隊は、朝鮮ホテルの向かい側に「大陸公社」という会社の看板を掲げて活動していた。保安司の前身であるこの組織は、まだ独立した部隊ではなかった。韓雄震は、防諜捜査の責任者として朴正熙に心置きなく会うことができ、朴正熙は弟のように慕っていた4歳下の韓雄震を、いわば防御服のような存在として捉えていた。韓雄震は結婚し、全州に家を構えていたが、この頃は京橋荘近くの2階建て住居で下宿をしていた。朴正熙は勤務を終えるとこの下宿に遊びに来た。韓雄震は次のように証言している。

 
 「朴正熙の姿は悲惨そのものだった。酒に酔っては私の部屋に来て泣き、悩みを抱えて睡眠もろくにとれない状態だった。やがて夜が更けると、酔ったボロボロの体で誰もいない官舎へと帰るのだ。その後姿が忘れられない。生活は困窮している上、妻は家出し、母は銃撃戦で亡くした。友人も去り、将来の希望は消え・・・。彼の人生で最も暗い時期だったはずです」

 

 韓雄震は、5.16事態で朴正熙に同行し、漢江を越えた。彼は朴正熙の光と影、全てを見てきた人物だ。朴正熙はこの頃、生活が困窮し、将校らを訪ね歩きながら金を工面していた。プライドの高い彼としては非常に珍しい行動だった。6.25動乱が発生する数日前、朴正熙は情報局第5課長、車虎聲を訪ね、自身の復職嘆願書に署名するよう依頼した。朴正熙は、粛軍捜査に参加していた将校に署名をしてもらうことが最も効果的だというのだ。車虎聲は快諾し、すぐに署名した。

 

(翻訳・構成=金惠美)


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