満州軍8団、4人の朝鮮人将校たちは、万里の長城の北方に位置する熱河省で布陣していた。1945年8月9日、ソ連軍の参戦をいち早く聞きつけたのは、反碧山の団本部に設置されていた団長副官・朴正熙中尉だった。彼は7月1日付けで中尉に昇進していた。
8団は、万里の長城北方に散っている全兵力(約4000人)を興隆に集結させた。そして、「上層部の命令に従い、内モンゴルの多倫へと北進せよ」という作戦任務を受けた。朴正熙は、この指令をシン・ヒョンジュン率いる第6連以下、下級部隊に伝えた。しかし、パン・ウォンチョルが所属する重火器中隊は、万里の長城を超えて南方へ下り、日本軍と合同作戦を行っていたため、通信する術がなかった。
当時、満州軍は大隊クラスの部隊だけが発電式無線機を持っていた。発電機は、30分ほどレバーを回し、通信機を振ってようやく送受信されるという代物だった。パン・ウォンチョルが選任将校を務めていた重火器中隊が万里の長城南方で作戦を終え、反碧山から20里ほど離れた狐山子の本部に戻ってきたのは8月13日の午後だった。パン・ウォンチョルが風呂に入ろうとしたとき、朴正熙中尉が電話を掛けてきた。声には緊張の色が表れていた。
「先輩、お疲れ様でした。機密維持のため、今からは朝鮮語を使います。9日、ソ連軍が侵攻し、全面戦に突入しました。我々は上層部の指令で興隆に集結し、多倫に進撃しました。明朝5時までに反碧山に来てください。反碧山で部隊を整え、興隆に向かいます。装備はできるだけ軽くしてください」
瞬間、パン・ウォンチョルはハッとした。1ヶ月前、平泉に駐屯中だった憲兵上位のムン・ヨンチェが葉書を送ってきたのだ。「建国同盟 軍事分盟」の連絡責任者だったムン・ヨンチェからの葉書には「私は持病の治療をするため、奉天に行く。パン中尉もあまり体調が芳しくないはずだ。休暇を取得し、まずは健康の回復を優先してはどうか」と書かれていた。パン中尉はこの手紙を「日帝の敗退は目前に迫っているため、休暇を出してとりあえず予備隊にまわり、作戦を実行しよう」という意味に捉えていた。よって、上層部に休暇を申し出たところ、「日本軍との合同作戦が終わり次第、1ヶ月間の休暇を与える」との約束を得たのだ。
パン・ウォンチョル率いる重火器中隊、およそ250人は、50頭ほどのロバに荷物を載せ、14日の明け方に反碧山へと出発した。暴雨が降り始めた。反碧山に集結していた8団の兵力は行軍隊列に再編成し、そのまま興隆へと向かった。反碧山から興隆までは60kmほどの距離だったが、江原道の山岳地帯のように険しかった。車すら通ることは不可能だった。
連日の暴雨の中、ロバと歩兵で構成された長い行列はひたすら歩いた。絶壁と渓谷が続く中、1日に50里を進むのがやっとだった。パン・ウォンチョルの中隊では、うとうとしながら歩いていて崖から落ちた兵士や、急流を渡ろうとして流された兵士もいた。
シン・ヒョンジュン率いる中隊も、食料と弾薬を積んだロバが川に流されたかと思えば、夜間に正体不明の部隊から奇襲攻撃されたこともあった。後日聞いた話によると、友軍部隊が誤認射撃をしてきたのだという。8月15日、16日も行軍だった。日本が降伏したという事実さえ知らず、彼らはひたすら歩いていた。暴雨の中で寝て、起きるとまた歩かなければならないという状況だった。よって、発電機を回し続けなければ作動しないような無線機をつける余裕すらなかったのだ。8月17日、パン・ウォンチョルの部隊が興隆に到着しかけた頃、ようやく無線機を作動させた。何の放送も聞こえなかった。あちこち回していると、中国語の放送が流れた。蒋介石の肉声による演説だった。パン・ウォンチョルは、その演説の内容を今でもはっきりと覚えている。
「日本は14年に及ぶ中国侵略戦争から完全に敗退し、降伏しました。東北地方では、朝鮮人たちが我々よりもさらに制圧されていました。一部では、日本人に取り入り、悪事を働いた朝鮮人もいますが、一切の報復行為を禁ずるものとします。今後は東北弁事処を組織し、王将軍(中国軍所属朝鮮人・金弘壹将軍を指す)を派遣するので、どうぞご自愛ください」
後から来たシン・ヒョンジュンは、興隆に到着した時、中華民国の晴天白日旗が舞っている様子を見て、ようやく「世界は変わった」ということを悟った。シン・ヒョンジュン、パン・ウォンチョルの証言によると、中国人の8団長は非常に円満な形でこの事態を治めたという。
「朴正熙ら朝鮮人の将校4人は、日本人将校13人と同時に武装解除された。ダン・ジェヨン団長は、日本人将校たちを興隆にある日本軍の下道部隊に引き継いだ。他の満州軍部隊では、日本人将校らが中国人の私兵によって殺害されるという事件が頻発していた」
満州軍中尉の朴正熙が武装解除をされたときも、シン・ヒョンジュン上尉と同様、心中は複雑だったはずだ。これは「老海兵の回顧録」から引用したものだ。
「満州軍の将校に就いて以来、ずっと大切にしてきた手垢だらけの軍刀、拳銃、双眼鏡などをすべて差し出した。このときの心情たるや、まるで翼を失った鳥のようだった。しかし、私は祖国解放の喜びを抱き、希望溢れる将来に期待して前進することを決めた」
はるか遠い万里の長城の山中で、あれほどまでに待ち焦がれた光復の日を迎えた朴正熙、もとい、タカキマサオはしかし、失ったものがはるかに多いことに気付いた。教師という安定した職業を捨てて軍人の道に進んだ彼は、日本が降伏した瞬間、自分の置かれている位置が日本側であることを思い出した。米国の原爆とソ連の参戦によって早められた光復だったため、光復の知らせさえも2日遅れで知った。それと同様に、朴正熙は、この決定的瞬間から、歴史の激流の中に「無力な存在」として放り出されてしまった。
日帝の抑圧に対してあれほど反発してきた朴正熙だったが、その日本の将校たちと同じ扱いを受け、刀も階級も月給(約150ウォン)も剥奪された。朴正熙は、兄・朴尚熙があれほど満州行きに反対していたことを思い出し、初めて後悔した。彼は民族解放の瞬間、喜びよりも先行きの不安が先に立った。国力が弱いと国民が貧困にさらされるという実感、光復によって襲ってきた矛盾と困惑と葛藤―。こうした体験が、朴正熙をアナーキスト(無政府主義者)へと走らせた原動力となった。
光と影―金日成と朴正熙
一方、ソ連のハバロフスクの北東約70km、アムール河流域のビヤツコエ村に置かれていた88特別狙撃軍本部では、朴正熙満州軍中尉とは正反対の立場で光復を迎えた「金日成ソ連軍大尉」がいた。追手だった朴正熙が追われる立場となった。方や金日成は、北朝鮮へ帰国し、錦を飾る日を待ちわびていた。
金日成は、漢方医であった父に連れられて満州に移住した。その後、中国人学校を卒業し、19歳で中国共産党に入党した。金日成は、中国共産党が指導していた東北抗日連軍の中隊長級指揮官となり、パルチサン闘争をしていた。そして1941年頃、満州軍と日本軍の攻撃を避け、ソ連へと渡った。ソ連の極東方面軍は、この中国人・朝鮮人の混成部隊を「88軍」という諜報部隊に再編成した。
軍長は中国人の周保中が務めた。金日成大尉は第1大隊長だった。ソ連軍は、朝鮮語もままならないこの33歳の大尉を、おとぎ話のような「金日成将軍」へと仕立て上げ、平壌に連れて帰った。金日成は祖国を離れて20数年間、ずっと中国とソ連共産主義者たちの部下だったことから、朝鮮人たちの生活や哀歓とはかけ離れていた。彼は事実上、中国化された朝鮮人だったと言える。
金日成・金正日集団の心理的特長となるのは「馬賊団的」な見方だ。つまり、北朝鮮を占領し、同胞たちを捕獲物と考え、自分たちの変態的ともいえる浪費生活には何の良心の呵責すら抱かないという性質だ。これは、外部勢力に属し、外部勢力に操られた満州時代の経験によるところが大きい。
朴正熙と金日成は、2人とも同時期に満州を経験し、同時期に祖国へ帰郷し、15年後には互いに対決者としての立場に立つ。2人の満州における経験の違いが、その後の韓半島の運命に少なくない影響を与えることになるのだ。
満州軍8団は、興隆に駐屯していた日本軍の下道部隊を武装解除させ、装備を回収した。その夜、興隆地域から退去するよう命じた。ダン・ジェヨン団長が下級部隊にさせていた訓練はこのためだったのか、とシン・ヒョンジュンは感じた。その内容がいかにも武士的なものだったからだ。
「1、今夜に限り、哨兵たちは、事前許可なくしての日帝への射撃行為を禁ずる
2、本日別れる日本軍下道部隊と我々8団が次に再会するときは、敵対関係にあるかもしれない
3、我々はしかし、今日まで同盟関係を結び、生死と苦楽を共にしてきた戦友だったという事実を消すことはできない
4、義理を尊重することが人間としての道理である。我々は最後の瞬間までその道理を尽くそうではないか」
8団のダン・ジェヨン団長は、朴正熙ら朝鮮人将校たちの職位を解除した後でも、客として8団に留まらせてくれた。やがて8月が過ぎ、早くも万里の長城を南下する雰囲気が漂い始めた9月のある日だった。朴正熙とイ・ジュイルがシン・ヒョンジュンを訪ねた。パン・ウォンチョルは既に奉天へと発った後だった。朴正熙が口を開いた。
「もう世界は完全に変わりました。今後の私たちの進路について話し合いましょう。中国の事情は先輩もよくご存知でしょうから、帰国のためにどのルートを使うべきか、教えてください」
「『君子は大道行』という言葉を覚えておきなさい。奉天を経由して帰国するルートはソ連軍が占領している上、奉天までの鉄路も絶たれている。遠まわりではあるが、北京を経由する道が一番安全ではないだろうか」
満州国が滅びたため、満州軍8団はまるで孤児のような有様だった。ダン・ジェヨン団長は、蒋介石と毛沢東、どちらにつくべきか選びかねていた。8団は部隊を整えた後、密雲という都市まで移動し、様子を見ることにした。朴正熙ら3人は、この機会に密雲まで同行して別れることにした。3人の朝鮮人は、ダン団長と別れの挨拶を交わし、汽車で北京に向かった。回顧録によると、シン・ヒョンジュンは9月21日に北京に到着したと書かれている。朴正熙の一行は、同胞が経営していた飲食店で数日宿泊し、来る日に思いをめぐらせた。
満州・中国戦線で光復を迎えた朝鮮人将兵たちは、北京に集まっていた。数十人が同胞経営の飲食店で寄宿した。上海の臨時政府は、崔用徳中国軍少将を東北判事所長に任命し、彼らを光復軍の傘下に編入させようとした。シン・ヒョンジュン、イ・ジュイル、朴正熙らは、この光復軍に入ろうとした。北京市内の北新橋という地区に製紙工場があった。この工場の建物と庭が光復軍の兵営となった。朴正熙は、光復後に光復軍に入隊したことをたいそう恥じていたという。
光復後に日本軍・満州軍出身の将兵たちで編成された北京の光復軍は、大韓民国の臨時政府傘下の「光復軍第3地帯 駐平津大隊」と名付けられた。平津は、北京と天津が合わさってできた単語だった。この部隊の大隊長には、シン・ヒョンジュン前満州軍上尉、1中隊長にはイ・ジュイル前満州軍中尉、2中隊長には朴正熙前満州軍中尉、3中隊長には尹瑛九前日本軍少尉、正訓官には鄭弼善光復軍工作員、軍医官には嚴在玩がそれぞれ任命された。
この部隊の統率者は、蒋介石軍の少将出身・崔用徳だった。崔少将との連絡責任者として、李成佳中国軍中尉が平津大隊に駐在した。本来、上層部では、この平津大隊の指揮者として朴正熙中尉の名前が挙がっていた。彼が満州軍官学校と日本の陸軍士官学校を優秀な成績で卒業したとして高評価を得ていたからだ。
上層部に対し朴正熙は、「年齢でも階級でもシン・ヒョンジュン上尉が私より立場が上なので、私が指揮官に就くと秩序が乱れてしまいます」とし、辞退した。そして朴正熙はシン・ヒョンジュンを訪ね、「先輩がこの部隊を統率しなければなりません。何も言わずに了承してください」と懇請した。
約200人で構成された平津大隊員たちは、帰国の日を待つのが主な任務だった。学生兵出身として光復軍に属していた朴基赫(延世大副総長を歴任)は「故郷に帰るために組織された集団だ。船便を待つだけでも規律を設ける必要があるため、軍事編制で組織されたのだ。光復軍という言葉に見合う理念が特別にあったわけではない」とした。光復軍の日課は主に訓練だったが、最大の課題は食事だった。シン・ヒョンジュン、朴正熙ら幹部たちは、部下たちに食事をさせるため、崔用徳と共に北京の同胞たちから食糧をもらっていた。
シン・ヒョンジュンは回顧録で「物乞いのようだった」と記している。兵営として使用していた製紙工場には食堂すらなかった。兵士たちは宿所で食事をとり、幹部たちは炊事場の横に定員20人ほどの食卓をつくった。椅子はなく、食卓周辺に立ち、談笑しながら食べた。朴正熙は1曲の歌をつくり、鼻歌混じりで歌っていた。シン・ヒョンジュンは、あまりにも何度もこの歌を聴いたため、50年以上経った今でも鮮明に覚えているという。
「食べ物が草と魚と/塩味の汁だけでも/光復軍の精神だけは/しっかり根付いているさ」
朴正熙が大統領に就任してから作られた「セマウルの歌」に似て軽快な曲だ。朴正熙は生涯を通し、ラッパや歌、ギター、短歌詠みなどの音楽を通し、自身の鬱憤や苦痛を癒していた。音楽さえも、彼はうまく利用していた。
共産党との接触、そして絶望へ
朴正熙やシン・ヒョンジュンは、平津大隊の中で、親日派に傾いたことがないという。光復軍の兵士たちは階級章を外し、日本軍、満州軍の軍服を改造したものを着ていた。この頃、光復軍出身者である張俊河(故人。前思想界社長)が朴正熙に会い、犬猿の仲になったという噂は事実ではない。シン・ヒョンジュンによると、早くも平津部隊内で左・右翼の対立が繰り広げられていたという。
「部隊員たちの間で目に見えない38度線が引かれたかのようでした。彼らが夜中、思想問題で討論を繰り広げたこともありました。朴正熙中隊長がどの理念に傾倒していたか、明確には覚えていません。ただ1つだけ覚えているのは、ヨ・ウンヒョン先生をホネのある指導者だと評価していたことです」
シン・ヒョンジュンによると、事件は1945年12月10日の午前10時に起きたはずだという。平津大隊の兵士らと野外訓練を行っていたとき、突然前方から機関銃の射撃の音が聞こえた。威嚇射撃だった。続いて、ある中国軍(蒋介石派)部隊が現れた。
彼らは「全員訓練を中止し、手を挙げて出て来い」と言いながら、何の説明もなく北新区の兵営へと行進させた。そしてシン・ヒョンジュン、朴正熙、イ・ジュイルらの将校出身の幹部陣を倉に押し込め、戸を締めてしまった。理由など知る由もなかった。シン・ヒョンジュンは、平津部隊を編成した頃から、中国共産党系列の朝鮮人工作員らが数人ついてきていたことを知っていた。
彼らは集会を開き、部隊員らに対する包摂活動も堂々と行っていた。シン・ヒョンジュンは今回の事態について、部隊内の共産主義者たちが、自分たちに協力しない幹部陣を戒めるため、中国軍に謀略したことで起きたのだと考えた。幹部たちは、数時間後に釈放されたものの、朴正熙はこの件がずっと忘れられなかった。
朴大統領は後日、2番目の娘・朴槿惠に北京での一件について語った。そして、異国の地ですら団結できずに分裂した朝鮮人の民族性について嘆いたという。朴正熙は、平津大隊で初めて共産党と接触したが、その経験はたいそう後味の悪いものとなった。またある日は、朴正熙が中隊を訓練させていたとき、数人が前に出て「党の会議があるため、先に失礼します」と言い放った。
「つべこべ言わないで訓練を受けろ!」
朴正熙は、彼らにより厳しい訓練を受けさせた。その日の夕方、共産主義者たちは朴中隊長を糾弾する会議を招集した。彼らは寝ている朴正熙を呼び出した。
「中隊長君は、党の重大な会議を無視させたことの責任をとってください」
この扇動に「そうだ!」などと同調する者も多かった。朴正熙は「何が『そうだ!』だ。部屋に戻って早く寝ろ!」と言葉を残し、出て行った。宿所に戻った朴正熙は、「君」という言葉が何度も思い出され、やっとの思いで怒りを鎮めたという。
東洋的・武士的な序列意識と礼節を徹底させていた朴正熙にとって、年齢と階級を無視して対立しようとする共産主義式の人間関係に生理的な拒否感を覚えた。朴大統領はキム・ジョンシン弘報秘書官に「あの頃、いろんな者が現れては軍隊を食い物にしようとしていたよ」と語ったこともある。
左・右翼にとってかわり、親・蒋介石派、親・毛沢東派へと分かれ、平津大隊の主導権を握ろうと争った朝鮮人たちの心根に朴正熙は絶望した。この絶望が、後に大きな問題意識へと発展することになる。
(翻訳・構成=金惠美)