朴正熙 逝去30周年記念連載⑤ ― 血書を綴り、いざ満州軍へ

満州行き・・・理由は「長刀への憧れ」?
日付: 2009年04月30日 00時00分

 

連載5教師から軍人へ

 

  私は、朴正熙を「教師、軍人、革命家」と表現している。この3種類の肩書きと性格が1つの体に収まっている。彼は国民を軍隊式に教育し、国家を革命的に改造した人物だ。聞慶の小学校教師を辞め、軍人の道へと進んでいなかったら、彼が革命家になることはなかったはずだ。

 

 1998年、ソウル市江南区に住んでいた柳ジュンソン氏は、87歳にもかかわらず非常に鮮明な記憶を持っている。朴正熙と共に教師をしていた人々のうち、柳さんは唯一の生存者だ。「朴正熙先生」に対する証言は、これまではほとんどが教え子によってなされたものだ。つまり、誇張と誤解が生じ、さらには美化されていることも十分に考えられる。そういう点では、同僚だった柳ジュンソン氏の証言は客観的で、より正確だといえるだろう。彼の証言を要約してみると以下のようになる。

 

 
 「私が聞慶公立普通学校に赴任したのは1938年4月初旬で、朴正熙先生が在勤中だった頃だ。当時、私の妻は妊娠中のため実家におり、私は別途に下宿を探さなければならなかった。学校の宿直室は、すでに朴正熙先生が宿として利用していた。私は朴先生の了解を得て、同じ部屋に寝泊りさせてもらうことになった。当時、私の月給は50ウォンだった。生活費を節約する目的で始めた宿直室生活は、有馬校長の小言によって中断された。校長によると「宿直室は宿直の教師たちのためにあるのだ。2人がここで寝泊りするのは芳しくない」とのことだった。私は荷物をまとめ、下宿を探した。朴先生はキム・スナさんの家で再び下宿することにした。
 
 朴正熙先生は基本的に無口だったが、言うべきことは必ず言う人だった。強情な性分でもあった。私は『この人は軍人になるべきだ』と感じていた。彼はまた、竹を割ったような性格でもあった。人が嫌がったり避けたりするようなことでも、自らの信念に従い、必要とあらば臆せずに行動していた。またある時は、運動場で私を横に立たせ、器械体操をしてみせた。そして彼は鉄棒をつかむと、大車輪を始めたのだ。鉄棒にぶらさがり、一時も動きを止めることなくブンブンと回っていた。まるで鉄棒と一体化しているかのように、自由自在に動いていた。ガリ勉ばかりだったという大邱師範学校で、ああいう運動をいつ習ったのか。私はただ驚くばかりだった。
 朴先生は、教師とは非社交的だったが、不思議なことに子どもたちとは多情多感に接していた。はな垂れ小僧たちとも色々な話をしていた。通常、教師が生徒と距離を置く理由としては、教師の権威を守ることが教育上望ましいと考えられているからだ。しかし、朴先生は全く違っていた。遠足に行くと、朴先生は子どもたちと共に語り、遊び、笑い、歌を歌った。まるで子どもに戻ったかのようだった」
 
 
 柳ジュンソンさんは、安東教育大学国文学科で教授として勤めた後、引退した。彼は朴正熙が満州軍官学校に進んだ理由に対し、通説とは異なる新たな証言をしている。

 

 

 「1938年5月頃だったと思う。宿直室で生活しながら、互いに打ち明け話をしていた。朴先生はこう話していた。
 
 『私は軍人になるつもりです。性格も軍人タイプですしね。問題は、日本の陸軍士官学校では年齢オーバーであること。満州軍官学校はあまり厳しくはないと聞いていますが、どうしても年齢制限で引っかかるのです』
 
 朴先生は、戸籍上の年齢を修正する方法について話しながら、兄の朴尚熙氏についてもボソボソと話していた。自分に比べ、兄はたいそう立派な人物だというのだ。
 
 『兄は、故郷では名将と言われています。私はチビでパっとしないのに比べて、兄は闊達な性格で、体格もよく、見た目もさわやかです。私は兄を尊敬しています』
 
 私は朴先生に『では、お兄さんに戸籍の修正を手助けしてもらいましょうよ』と提案した。朴先生は本当に数日間実家に戻り、1歳下の年齢に修正してきた。ただし、問題は終わらなかった。身分照会をすると、学校に保管されている朴先生の記録と戸籍が異なり、混乱が生じると思われたのだ。私と朴先生は、宿直室で夜通し対策を練った。その時、私たちは『満州軍官学校に歓迎されるべき行動とは何か』についても研究した。
 
 私は、ふと『朴先生、指先を少し切って、血文字で嘆願書を書いてみては』と提案した。彼は賛同し、すぐに実行した。彼の近くに置いてある生徒の試験用紙を広げると、カミソリの刃を小指にあてがった。私は内心、まさかと思ったが、彼は本当に指を切り、血を出した。朴先生はその試験用紙に、血が滴る指で『盡忠報國滅私奉公』と書いた。彼はこれを折り、満州に送った。手紙が満州に着くまでに1週間ほど掛かった。それから半月ほど過ぎた頃だろうか。誰かが『満州で発行されている新聞に朴先生の話が載った』などと話していた。どんないきさつでその血書が新聞に載ったのかは分からなかった。当時、満州にいた大邱師範学校時代の教練主任・有川大佐の働きかけによって血書が新聞に載ったのか。または、満州軍官学校が新聞に直接資料を提供したのか。いずれにせよ、目的は達成されたのだった。
 
 数日後、有川大佐から朴先生のもとに1通の手紙が届いた。
 
 朴先生は『軍人になりたいなら、一度会いに来なさいとのことだ』と手紙の内容を教えてくれた。数日後、朴先生は満州に向かった。有川に会ったようだ。戻ってきた彼は、小脇に『東洋史』などの本を数冊抱えて『試験を受けてみろといわれた。受けるしかない』と言っていた。
 
 その直後、私たちは校長の指示で宿直室を離れ、下宿に移った。朴先生はその後、校長に了解を得て、再び宿直室に戻ったようだ。朴先生が、宿直室でナポレオンの肖像画を掛けていたのは今もはっきりと覚えている。赤いマントに勲章をぶら下げ、馬にまたがっているナポレオンだ。私の息子、柳浩文(前建設部産業立地局長)は1939年に聞慶普通学校に入学した。担任は朴先生だった。この年の秋、朴正熙は満州軍官学校の入学試験を受けた。朴先生が日本人の校長とケンカをし、満州に発ったという説もあるが、ケンカをしたという事実はない。1939年の春、私は3週間ほど日本へ視察旅行に行ったことがある。その間にケンカなどがあったのかは分からない。私は朴先生が満州軍官学校に入学する頃、つまり1940年の春、栄州に転勤した。朴先生はその後、噂によると、満州軍官学校を経て日本の陸軍士官学校を卒業した後、刀を携えて聞慶に現れ、大歓迎を受けたという。私は内心『やはり進むべき道に進んだのだな』と思った。5・16革命の直前、彼が大邱で2軍の副司令官を務めていた頃に会った。彼は英語の本を読みながら、急にこんなことを言い出した。
 
 『わが国はこのままで良いと思いますか。巷では『生まれ変わるべきだ』という流れがあるようですが、どう思いますか』
 
 私は『政治に関心がないのでよく分かりません』と答えた。最後に朴先生に会ったのは、彼が亡くなる3カ月前だった。私の息子を含め、朴先生の教え子たちが青瓦台に招待され、昔の話に花を咲かせた。大統領は私を見て『おっと。すっかり禿げてしまいましたね』と言い、周囲を爆笑させた」

 

 

通説の信憑性とは・・・
 

 

 朴正熙先生が血書を書き、満州軍官学校の入学試験を受けられるよう許可を得たと語る同僚教師・柳ジュンソン氏の証言は、これまでの通説を覆すものだ。通説では、朴正熙が校長とケンカをし、教師を辞めた後に満州に行ったというものだ。こうした通説は、朴正熙が大統領だった頃に広まっていた。この通説はさらに一人歩きをし「朴正熙は独立運動を決起する力を養うため、満州軍の将校になろうとしていた」という逸話にまで発展したこともある。

 
 複数の人々による証言をまとめると、どうやら「血書説」が最も信憑性が高いようだ。朴正熙は、大邱師範学校の在学中も聞慶での教師時代も、常に「軍人になる」という夢を持っていた。校長との不和が原因で衝動的に軍人の道を選んだのではないのだ。1962年、当時の最高会議議長秘書だった李洛善中佐が記した備忘録にも、似たような記録が見られる。

 

 「日本の陸軍士官学校も満州軍官学校も年齢オーバーだったが『軍人になる』という一念で軍官学校に手紙を出した。その手紙が満州新聞に掲載された(このように、軍官を志願するほどの愛国精神の持ち主がいる、というくだりで・・・)。その新聞を見て、姜大尉が積極的に後援するようになった。彼とは満州の旅館で初めて会った。それから、姜大尉は朴の橋渡し役となった。姜大尉は当時の試験管でもあった」

 
 李洛善中佐が当時取材した内容も、柳ジュンソン氏の証言とほぼ一致している。すると、逸話や通説はどのようにして生まれたのか。大邱師範学校時代の同期生であり、当時の聞慶に近い尚州で教師をしていた権サンハ氏(前大統領情報秘書官)の証言がある。
 

 「1939年の10月か11月、朴正熙が大きな荷物を持って私を訪ねてきた。学校に来た視察に『髪が伸びている』と指摘されたとかで、校長と喧嘩して辞表を叩きつけてきたという。彼は満州に行き、大邱師範学校の教練主任だった有川大佐に会う予定だと言っていた。翌朝、列車に乗る正熙を見送った」

 
 
 
 朴正熙は、権サンハ以外にも数人に同じようなことを話していた。しかし朴正熙は193910月、満州軍官学校の入学試験を受けて学校に戻り、勤務を続けた後、翌年3月に満州に発ったことが確認されている。朴正熙が有馬校長を殴ったとか、卓をひっくり返したとか、ケンカで出て行ったという話には裏付けがない。さらに疑問なのは、1976年2月17日、大統領の弘報秘書官だった鮮于が作成し、朴大統領も確認した「大統領の履歴書」の内容だ。この資料は、朴大統領が読み、直接校正した跡が残っている。この資料では、朴正熙が満州に行った動機について「道視察士が、高齢の有馬校長に不遜な態度をとった。その態度に嫌悪感をもったことが教師を辞めた理由の一つだ」とされている。ここでは、有馬校長が同情の対象となっているのだ。朴正熙は、なぜこのような「逸話のタネ」となり得ることを語ったのか。自身の満州行きを合理化するため、自ら創り出した話ではないだろうか。朴正熙の4歳上の姉、朴在熙はこう証言している。
 
 
 「弟は時々、家に来ては『二度と先生にはならない』と言っていました。ある日、夜遅くに弟がまた私を訪ねてきました。満州軍官学校に行くことにしたというのです。『父と尚熙兄さんに教師を辞めると言ったら、ひたすら怒鳴られた』と言いながら『満州に行くから交通費を貸してほしい』といわれました。数日後、お金を受け取ると、実家には顔すら出さないまま出発しました」
 

 

実は本音?―「長刀を持ちたかった」

 

 朴正熙の2番目の兄、朴ムヒの長男・ジェソクによると、朴尚熙は、教職という厚待遇で安定した職を辞め、満州軍官学校に入ろうとしている弟をたいそう案じていたという。

 

 警察署と留置所の世話になった経験を持つ抗日闘士・朴尚熙は、弟の変化を受け入れ難かったのだろう。こうした非難に対し、朴正熙は弁明の一環として、日本人の校長や視察との衝突説を作り出したり、誇張したりしたのではないだろうか。逸話や神話の類には些細なりにも必ず根拠があるように、朴正熙の逸話も、このような小さい事実から発展していった可能性がある。朴正熙が満州に試験を受けに行った頃、実際にそういった事件があったことも事実のようだ。朴先生の生徒であり、先生より5歳下の黄シルガンは、卒業後も朴先生をよく訪ねていた。1939年10月のある日、黄シルガンが下宿を訪ねたところ、朴先生はなにやら怒りが冷めやらぬ様子だった。

 

 「もう君と頻繁に会うこともなくなるだろう。アイツめ、『鮮人』とは何だ、『鮮人』とは!その上、支署長を呼んで和解しろだと?さすがに今回ばかりは許せない」

 

 朴先生によると、有馬校長が視察士たちを接待している席で、朝鮮人を侮辱する発言をしたため、強く反発したというのだ。

 

 「『内鮮一体』の精神とは、朝鮮人と日本人が1つとなって美英鬼畜をやっつけようという意味ではないのか。それなのに、あなたたちは朝鮮人を差別している。これでは天皇の意に反しているのではないか」

 

 朴先生が校長を責めたてたことで有馬校長が動揺し、日本の警察を間に挟んで和解を勧めたというのだ。こうした衝突が、偶然にも満州軍官学校の試験と同時期に発生したことで「抗日意識の強い朴先生が、悪質な日本人校長と喧嘩をし、独立運動を準備するため満州に行った」という話に発展した可能性がある。少年用の朴正熙伝記を書くために準備をしていた金ジョンシン弘報秘書官が、朴正熙に「閣下はなぜ満州に行ったのですか」と尋ねたことがある。朴正熙の答えは単純明快だった。

 
 
 「長刀を持ってみたかったからだよ」
 
 

 いずれにせよ、この答えこそが朴正熙の「満州ミステリー」に対する最も正直なところなのだろう。朴正熙は1939年10月、満州の牧丹江省にある満州軍6官区司令部内の将校クラブで、満州局陸軍軍官学校第2期試験を受けた。試験科目は数学、日本語、作文、身体検査などだ。李再起(故人。陸軍大将予備役)も、同じ場所で試験を受けた。李再起によると、満州軍の大尉が試験の直前に国民服を着た青年を連れてきたため、試験の監督官だと思ったという。しかし、その青年は他でもなく受験生の席に座ったのだ。後日、大尉は間島特設隊に勤務していた姜大尉であり、受験生は朴正熙だったことを知った。翌年の1月4日付「満州国公報」には「陸軍軍官学校第2期予科生採用試験合格者公報」が掲載された。朴正熙は、240人の合格者(朝鮮人11人含む)のうち15位だった。奉天で試験を受けた翰林(前1軍司令官)は20位だった。

 

 朴先生の親衛隊だった5学年のカン・シンブン、オ・ユナム、ソ・ガンオクは、朴先生が満州に発つという話を聞き、下宿を訪ねた。泣きながらしがみつく子どもたちに、朴先生は「私たち朝鮮人は、朝鮮人として成すべきことがある」と言いながら、それぞれに餞別の品を渡した。朴正熙が聞慶を去る当日、多くの有志と学父母、生徒らがバス停まで見送りに来た。その後、朴正熙は一旦実家に立ち寄り、3月下旬に亀尾駅の北行線プラットホームで母と別れた。

 

 喜寿を迎えた母は、朴正熙の服をつかみながら「こんなに年老いた母さんを置いて、なぜそんな遠いところに行ってしまうの」とつぶやいた。老眼が涙で溢れる母を背に、朴正熙は汽車に乗った。朴正熙が振り返ると、母は白い服が見えなくなるまで手を振っていた。

 

(翻訳・構成=金惠美)


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