朴正熙 逝去30周年記念連載 ― ③最下位だった学生時代

73人中73位!大邱師範時代の成績表とは・・・
日付: 2009年04月16日 00時00分

 

連載3 ― 大邱師範時代の成績表には・・・


 朴正熙が5年間通った大邱師範学校の成績表は、大邱師範学校の後身である慶北大学師範大学が公開を禁止していたため、世に出まわっていなかった。朴正熙政権時代の伝記では、亀尾普通学校でトップだった時の成績表が紹介されていた。大邱師範学校時代の成績については、単に「良い方」、「普通程度」などと表現されていた。

 私は1991年、故・李洛善氏(商工部長官を歴任)が残した「朴正熙ファイル」を閲覧した。1962年、彼が陸軍の小領として国家再建最高会議議長の秘書を務めた頃のメモと資料を集めたものだ。その中から、朴正熙の師範学校時代の成績表を発見した。

 朴正熙は、100人中51位で入学試験に合格したものの、1学年の席次では97人中60位まで下がった。2学年では、83人中47位で若干上昇したものの、3学年では74人中67位、4学年では73人中73位、5学年の頃は70人中69位だった。この成績表が、彼の政権時代に公開されなかったのも「万年ビリの大統領」というレッテルを貼られまいとしたからだろう。

 朴正熙の素行評価も悪かった。風紀を意味する「操行評価」では、5年間「良、良、良、可、良」だった。2学年の担任は、彼を「陰鬱で貧相な様子」と評していた。3学年では、「貧困で活発さがない。多少不誠実」、4学年では「不活発。不平を持ち、不誠実」と記されていた。

 ちなみに、志操は「堅実」、習慣は「寡言」、思想は「穏正」、学習態度は「普通」と評価されていた。さらに驚くべきことは、長期欠席の記録だ。2学年では10日、3学年では41日、4学年では48日、5学年では41日も欠席している。寮費が工面できるまで故郷に戻っていたからだ。

 朴正熙は、底辺あたりの成績をウロウロしていたため、1ヶ月に7ウォンずつ支給される官費すら受け取ることができなかった。当時の7ウォンといえば、米の半俵程度の価値があった。逆に、成績が40位以内の官費生たちは、7ウォンを受け取ると、食費として4ウォン50銭、その他共用費として2ウォンを寮に納めなければならなかった。

 寮の運営は、学生たちが自主的に行っていた。朴正熙は、家から食費が送金されるのを待った。送金が遅れるとタダ飯、あるいはツケで食べた気分になった。こうなると、プライドの高い彼は故郷のサンモリに帰ってしまうのだ。
朴正熙の甥であるパク・ジェソク(朴正熙の2番目の兄、パク・ムヒの長男)は「月謝がかからない上にカネまでもらえる」という大邱師範学校に通う叔父が、金をもらうために帰郷しては数日ブラブラして帰ることが理解できなかった。

 ジェソクの叔父・朴正熙は、布団カバーと溜まった洗濯物を持ってきては母に渡した。正熙はまた、「朝鮮日報」のソンサン支局を運営していたパク・サンヒの家を訪ねてはゴロゴロしていた。サンヒはジェソクを呼び、手のひらサイズのメモに文を書いた。「甥を遣るので、弟の学費を援助してもらいたい」といった内容だ。このメモを持ち、ジェソクは亀尾面長や穀物検査所長など、亀尾面に住む有志らを訪ねて回った。

 「彼らは仕事の手を止め、メモを読むとカネを封筒に入れて渡してくれました。少なくても1ウォン、多ければ5ウォンずつ下さいました。この封筒を持ち帰り、サンヒ叔父さんに渡すと、叔父さんは封筒を開けもせず「君の叔父さんにあげなさい」と言うのです。毎回あまりいい気分ではなかったのでしょうね。悩みの種だったと思いますよ。」

 サンモリに住む朴正熙の友人たちは、ラッパの音で彼の帰郷を知った。裏山に登って吹く軍用ラッパの音。成績が最下位であることと貧困、そして日帝の抑圧に苛まれた自分の気持ちをなだめようとしたのだろう。

 


「ビリ」の理由?

 

朴正熙の成績表で、「趣味」の欄には「剣道」と書かれていた。朴正熙は他にも、射撃、ラッパ、陸上などで能力を発揮した。学業面ではビリだったが、教練時間には小隊長を務めていた。軍事、及び体育科目で活発に動けていたということは、彼の身体の発育状態が大幅に向上したことの表れだ。5学年の頃、彼は身長159.2cm、体重59.5kg、胸囲88cmで、「甲」の評価を受けた。学科の中でも、いくらか成績がましだった科目は歴史、地理、朝鮮語だった。

この「朴正熙ファイル」には、同期生である石光守(故人。国際新聞常務歴任)が李洛善小領に送った手紙が収められていた。学生時代の朴正熙を評した手紙だった。

 「無口で、いつも怒っているような顔で笑いもしない。考え込んでいるような態度が印象的だった。同期の中で誰と親しいのかすら分からなかった。彼は5学年の頃から剣道を始めた。ボクシングは寮でそこそこ練習した程度で、道場に通ったりはしなかった。軍の楽隊に入り、ラッパを担当した。サッカーも上手だった。主に自分の心身練磨に力を入れていたようだ。成績はいまいちだったが、頭は良かった。試験勉強を一生懸命している様子はなかった」

 同期の曺増出(文化放送社長歴任)が書いた朴正熙の人物評もあった。

 「基本的に内向的で、いつも何かを考えているようだった。何を考えているかは口にしないため、彼を本当に理解している学友はほとんどいなかった。他の学友たちは、将来の夢や抱負について語ったりしていたが、それらについても彼は全く語らなかった。交友範囲もそれほど広くはなかったようだ。全校でも指折りの剣道の腕前だとして、放課後に竹刀で練習する姿を度々見かけた。普段、友人らとふざけて遊ぶときも、剣道の真似をしては頭を小突いたりしていた。ラッパの第1人者として、下級生らを連れ、大きな柳の木の下でラッパの練習をする姿が記憶に新しい。器械体操も得意だった。4・5学年の夏休みには大邱80連隊に入って軍事訓練を受けた。朴正熙は教練にたいそう興味津々だったようだ。師範学校の頃、彼は頻繁に助教(准教員のような存在)として選ばれた。特に、総剣術は職業軍人を凌駕するほどの腕前だった。」

 曺増出は、この手紙の中で、大邱師範学校の当時の雰囲気をこう表現している。

 「日本の精神が染み付いた教育者たちだけが集まっていた。そのため、天皇絶対崇拝から始まり、神格化で終わるような教育理念だった。学生たちの間では民族的な義憤心が燃え上がり、まさに「無抵抗という反抗」だった。小説を読むときは、日本人の作品は意識的に避け、世界文学全集を読んだ。寮でも、弾圧に屈しまいと、朝鮮・東亜日報を購読し、「開闢(かいびゃく)」などの雑誌を読んだ。新聞の連載小説では「常磐木」が印象的だった。社会主義的な傾向を持った学生もいたが、ほとんどが民族運動を展開するための準備をしていた。」

 「1学年が入寮すると、先輩たちが民族意識を鼓吹させた。先輩たちは、私たちが寮の中でゲタを履けないようにした。国語の担当だった金永驥先生が、国語の時間に国史(歴史)の話をしてくれたことに痛く感銘を受けた。朴正熙は、特に国史に興味を持っていた。寮の生活は愉快で有意義だった。朴正熙の人格は、寮での私生活を通して培われたといっていい。5年間の団体生活で功徳心とボランティア精神を持つようになった。ある時は「我」を捨てるという精神的な土台を築いた。」

 朴正熙は、学業では底辺をウロウロし、寮費が足りず故郷に帰り、長期間欠席をしなければならなかったという「二重苦」があったが、軍事訓練と体育には熱心に参加していたことが分かった。

 朴正熙は、皇民化を目的とした学科教育を受け、模範生となる道は諦め、国家主義を追求する軍事教育には熱心だった。朴正熙のこうした選別的受容が「私は民族の魂をお前たちには売らない。その代わり、軍事文化の実質については積極的に勉強する」というポリシーに基づいたものならば、彼のビリは「理由あってのビリ」ということになる。

 1932年4月8日、大邱師範学校の講堂で行われた4期の入学式で、朴正熙も他の学生と同じく、平山正校長が強く印象に残ったはずだ。平山校長は、学生たちに日本語で演説をした後、父兄に向かっては流暢な韓国語で挨拶をしたからだ。

 朴正熙が大邱師範学校4期の新入生として学校に足を踏み入れたころ、学内の雰囲気は重かった。3学年先輩である尋常科1期の学生たちのうち、27人が退学になったばかりだったからだ。社会主義者・玄俊赫教師が組織する「読書会(社会科学研究会)事件」で連行・拘束されたのだ。1期に入学した韓国人学生は93人中86人だが、卒業者は55人だった。脱落者の31人は、ほとんどが抗日運動に関わって退学処分となった者たちだった。

 光複後に金日成の指示で暗殺された共産主義者・玄俊赫が、大邱師範の教師として赴任したのは1929年だった。平南・价川出身だった彼は、京城帝大の哲学科を卒業し、職場を求めて大邱にやってきた。
 また読書事件が起きた。1934年4月、朴正熙が3学年の頃だった。1期先輩である4学年の中で、チン・ドゥヒョンら6人の学生たちが読書会を作り、社会主義の本を読んだとして退学処分となり、拘束された。留置場で、朝鮮人の刑事はチン・ドゥヒョンに対してこう言った。

 「玄という奴が蒔いた種は本当にしぶといな。今度こそ根こそぎ抜き取ってやる」

 この言葉を聞いた瞬間、チン・ドゥヒョンは「朝鮮日報」で読んだコラムの一説を思い出した。

 「朝鮮人は刑務所暮らしを2~3年経験しないと真っ当な朝鮮人にはなれない」

 チン・ドゥヒョンは「私もついに正しい朝鮮人になるための修練の場として刑務所ぐらしをするのだ」と覚悟を固めたという。

 

朴正熙、時には詩人にも…

 

この読書事件から1ヵ月後の5月、朴正熙は金剛山へ修学旅行に出かけた。鉄原で電車に乗り換え、内金剛入り口の駅に到着した。そこには太平旅館の主人が大きな旗を持って出迎え、歓迎してくれた。朝鮮人が経営するこの旅館では、学生たちを誠心誠意もてなした。朝鮮料理も美味しく、寝床も快適だった。翌日、内金剛を見学した後、到着したところは日本人が経営する「クミ山荘」だった。

 日本人の宿主によるもてなしは、快適なものとはいえなかった。1泊3食で2ウォン。太平旅館よりも3倍も高かった。夕食に出た日本食もまずかった。寝る時は土の上に藁を敷き、その上に寝かされた。怒った学生たちは、この旅館で作った翌日用の弁当は食べたくないから作らないでほしい。その分の食費を返してほしい、と頼んだ。
 
 日本人の宿主は「翌日の弁当のおかずはすでに作ってある。食べようと食べまいとカネは払ってもらう」というのだ。朝鮮人の学生たちは腹を立て、ある考えに達した。翌朝になり、旅館で準備した弁当は誰も持っていかなかった。日本人の引率教師が「今日行く所は大変ハードな道だ。万が一事故が起きても責任は取らないぞ」と言いながら弁当を持たせようとしたが、誰も言うことを聞かなかった。学生たちは昼食を抜き、外金剛を見学し、無事に目的地に到着した。引率の教師はこの事件を不問に付したが、鳥飼校長がこの件を知り、徹底的に調査するよう指示した。

 まず、鄭明模、 鄭憲旭の2人が主導者として挙げられ、退学処分になった。ユ・マンシクは無期停学、他の7人は1週間の謹慎処分となった。学校は、学生たちの両親を呼び出した。学生らの調査が進められている2日間、両親たちは廊下で待機していなければならなかった。この事件は「金剛山毘廬峰事件」と呼ばれた。

 朴正熙と同期の李ジョンチャンは几帳面な性格だった。李ジョンチャンは、この修学旅行中に訪れた店や公園事務所で必ず記念スタンプを押し、スタンプ集を作った。 
 そのスタンプ集には友人らの一言が寄せられているが、朴正熙の書いた文がおもしろい。文法だけ現代風に直し、紹介する。

 

 「金剛山1万2千峰、君は世界の名山!
   ああ!君の体は三千里 江山に住む私たちは
   こんなにボロボロの格好では 君に対して頭があがらない
   金剛山よ、私たちも闘おう 君と共に天下に輝くために
   温井里にて 正熙」

 

 他の同期の学生たちは「ああ、一度でいいから来てみたかった金剛山よ!」などと、自然を自然として捉えているが、朴正熙の文には祖国の運命を感嘆している様子が込められている。無口で考えることが好きな17歳の心の中で、問題意識が大きく育っていたことを伺い知ることができる。朴正熙を「近代化の革命家」へと導いた非凡な性格は、自分自身の「恨」を民族の「恨」と同一のものとして捉えた点にある。共同体ではなく、自身の「恨」のみを晴らそうとしていたら、彼は利己的な立身出世主義者の道に進んでいたはずだ。

 朴正熙が、亀尾普通学校時代も強い正義感の持ち主だったかは分からない。その正義感が教えられたものなのか、元々備わっていたものなのかに対しても議論の余地はある。しかし、いくつかの痕跡により、朴正熙が大邱師範学校時代からは正義感の強い学生であったことが分かる。

 1936年に発刊された「大邱師範 教友会誌」第4号に、5学年の頃に朴正熙が書いた詩が載っていた。

 


 「大自然」

1、 庭園に咲く美しいバラの花よりも
  荒野の隅でおどおどと遠慮がちに咲く
  名もない1本の野花が
  より気品に溢れ、美しい

2、美しく着飾った貴婦人よりも
  名誉の奴隷となった英雄よりも
  太陽を背に、大地を耕す農婦が
  より高貴で美しい

3、 1日の過ごし方はあの太陽のように
  ひと晩の過ごし方はあの波のように
  のびやかに、ただ穏やかに
  過ぎ行く日々を送り、来たる日を迎えたい。以上。

 


 ある日本の記者にこの詩を読ませたところ「言語感覚が非常に抜きん出ている。純粋な心の持ち主だ」と驚いていた。「日本語の韻律もよく調和しており、歌の歌詞のようだ」という。実際、自分の詩に1,2,3の番号をふっていることで、彼が作詞したいくつかの歌の歌詞を連想させる。最後に「以上」と締めくくっているところが印象的だ。

 ここでも、確かなことを好むという朴正熙の考えを知ることができる。この詩から感じられることは、何といっても、従順で素朴なことに対する憧憬だ。野花や農婦に象徴される弱者と素朴感、そして対照となる貴婦人と英雄の間で、朴正熙は弱者の側に立つ、ということを宣言している。朴正熙は、強者と金持ちに対する反骨意識と素朴性を死ぬまで持っていた。朴正熙のこうした意識は、大邱師範時代に輪郭が形成し始めたようだ。

 (翻訳・構成=金恵美)


 
 


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