「酒?」
伊吹はきょとんとした顔で祥一を見返した。
「ぼくがおごるよ。中ジョッキのビールじゃどうも物足りない。今夜は大いに飲みたいんだ。つき合わないかい」
伊吹は苦笑しつつ、
「つき合ってもいいけど、知っている店でもあるのかい」
「よく知っているというわけではないが、すぐそこにちょっとばかり感じのいい赤提灯(あかちょうちん)の飲み屋がある」
本当は、感じがいいなんてもんじゃない。じつは、祥一は、その店にはつい先日、行きあたりばったりに、いちど入っただけだった。駅の南口を出てすぐ右側の路地には、何軒もの飲み屋が並んでいて、どこで飲もうかと路地をずっと進んで行ったら、路地の突きあたりが曲り角になっていて、飲み屋の軒並みはそこで尽きていた。尽きたところの角が赤提灯の小さな店になっていたので、祥一はとりあえずそこで飲むことにした。文字通り、行きあたり、というより突きあたりばったりに入った店だった。
五十年配の不愛想なあるじが一人で営んでいて、肴(さかな)もこれといったものはないが、ビーフシチューを腹に納めたあとであってみれば、そんなことはどうでもいいだろう、と祥一は踏切を渡るのをやめ、伊吹をその店に導いて行った。
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店は空(す)いていた。コの字型のカウンターの回りに、椅子が十いくつか並んでいるが、客は四、五人ほどだった。安飲み屋だけに、天井は黒ずみ、壁もカビのようなもので青味がかっている。河野屋の方がずっと清潔なくらいである。伊吹は美食家だけに、薄汚いこういう店についてどういう感想を持つだろう、と祥一は思ったが、伊吹は別に何の表情も示さなかった。良質の肉さえ食えば、あとはどんなところでもいい、とでも思っているかのように、店のたたずまいについては無関心な様子だった。
伊吹と一緒に酒を飲むのももちろんはじめてだったが、伊吹はやはり酒の方も行ける口だった。大根おろし、冷やっこなどを肴に、二時間ほどのあいだに、二人で銚子を七、八本空(あ)けたろうか。
「金さんは、いつ頃から酒を飲むようになったんだい」
一緒に飲みはじめてしばらくしてから、伊吹がたずねた。
「小学校五年のときだな」
伊吹は怪訝(けげん)そうな顔で、
「小学校五年?」
「処女酒を飲んだのが小学校五年ということさ。その頃、ぼくの家では酒の密造をしていたんだ。裏の物置には、おやじの造った大きな樽入りの酒がいくつも並んでいた。その酒を盗み飲んだのが、酒の味を知った最初ってところかな。ちょくちょく飲むようになったのは大学に入ってからだ」
そういって、祥一は銚子を手にとり、伊吹の盃(さかずき)に酒を注いだ。伊吹も自分の前の銚子をとって祥一の杯に注いだ。
「金さんちも酒の密造をやっていたのか。ちょうどその頃、敗戦後まもない頃だね、俺のクラスにいた朝鮮人の家も密造をやっていた」
「小学校の同級生に朝鮮人がいたのかい」
「一人いた。同じ学年では四、五人いたかな。もっとも、みんな日本名を名乗っていたけど。金山とか、吉村とか」
伊吹はそこで酒をひと口飲んでから、
「ところで、金さんは最初から金という朝鮮名を使っていたのかい。大学で知っている朝鮮人にも、まだ日本名を使っているのがいるけれど」
と祥一にたずねた。
1984年7月31日4面掲載