朴正熙 逝去30周年記念連載 ― ②少年時代

朴正熙が記した「私の少年時代」
日付: 2009年04月08日 00時00分

 
  

朴正熙大統領が1970年4月26日に書いた手記「私の少年時代」を紹介しよう。文字の綴りを現代風に直し、漢字をハングルに変換したが、原文への加筆・修正はしていない。

 

 連載2- 朴正熙が記した「私の少年時代」

 

  サンモ洞という村は、まさに1910年代の韓国の農村そのものと言えるような、寂れた村だった。この村では、善山金氏(善山派の金家)の数戸だけがやや裕福だったものの、他の家庭はほとんどが貧しかった。村では、約90戸が6つの小部落に分かれ、集団で暮らしていた。

 サンモ洞では、約1600坪ほどの田畑を耕しながら細々と食いつないでいた。兄たちが成長し、農業を手伝うようになってから生活は少しずつ楽になった。

父は家事に無関心で外出してばかりだったため、母の苦労は並大抵のものではなかった。母はまだ若く、良家の閨秀として生まれた。結婚するまでは特に苦労を知らずに育ったようだ。結婚後は苦労続きの中、私たち7人兄弟を一人前に育てることに全力を注いだ。
 

  ある日、母は3番目の兄・サンヒを亀尾普通学校に入学させた。当時、この村で普通学校に通う学生はサンヒ兄1人だけだった。私が9歳になると、両親は私を亀尾普通学校に入学させた。地元からは私を含む3人が普通学校に入学した。他の2人は私より数歳上だった。入学前、2人は教会に通って神学を少し勉強したということで、最初から3学年に入学した。私は1学年に入学した。このとき兄はすでに卒業していた。

 
 サンモ洞から亀尾邑までは約8㎞。田舎風に言えば20里だ。学校には1926年4月1日に入学した。午前中に4時間の授業を行うため、学校の始業時間は午前8時だったはずだ。明け方に起き、遅刻せずに20里の道を通うことは並の苦労ではなかった。少し遅れていそうだと感じたら、駆け足で20里の道を走らなければならなかった。時計を持っている人など誰もいなかったため、時間など分からない。ただ、毎日通学途中に出会う郵便配達員を見ては「今日はここで会ったから遅れている」「今日は間に合いそうだ」などと見当をつけていた。また、京釜線の汽車が走っている場所によって時間を予測したりすることもあった。しかし、汽車の時間表が変更されたときは予測が外れることもしばしばだった。
 

 春と秋は通りの風景を楽しみながら、気持ちよく学校に通えた。半面、夏と冬の苦労は言うまでもない。夏は、雨が降るとカバンを腰に縛りつけ、笠を使って歩く。ズボンのすそは歩くたびにたくし上げなければならない。学校に着く頃には、本はほとんどずぶ濡れになっていた。冬は、中綿入りのパジ・チョゴリと中綿入りのポソン(履物)を履き、上着を着て、首に襟巻きなどを巻く。目だけをキョロキョロ出したような格好で通う。道に氷が張ると10回以上は転ぶ。吹雪になると前を見ることもできない。田舎のあぜ道では、雪が積もったり吹雪になったりすると、そこが道かどうかすら見分けがつかなくなる。

 
四谷洞裏の松林では、木が生い茂り、オオカミが出るといわれていたため1人では歩けなかった。ある吹雪の朝、ここを歩いていると、頭上に2頭のオオカミが戯れているのを見つけた。恐ろしくなった私たちは急いで家に帰り、その日は学校に行くことができなかった。その後も、その場所を通るとオオカミが現れそうな気がして、オドオドしながら無言のままそそくさと通っていた。解放後、故郷に戻ってきたときには、この松林の木はすべて伐採されており、赤い山肌がむき出しになっていた。
 

 <母の温情とピビンパの思い出> 

 学校に通っていた私より苦労したのは母だった。十分な睡眠もとれないまま、窓越しに夜が明けたことを確認しては起きた。明け方に飯を炊き、弁当を作り終えてから私を起こしてくれた。冬の寒い日は、桶に熱い湯を入れて部屋の中まで持ってきては、まだウトウトしている私の顔を拭い、飯を食べさせてくれた。目も覚めていない状態で飯が喉を通るわけがない。しかし、飯を食べないと母から何度も叱られる。

朝食を食べていると友達がやってきて、学校へ行こうと呼びかけられる。母はその子らを部屋に入れてオンドルに座らせ、凍えた手足をさすった。飯を食べ、登校の用意が整うと3人は夜明けの道に飛び出す。隣の家ではまだ誰も起きていないような明け方の暗い道を、凍りつくような田舎道を、転びながらもただひたすらに走った。
 
 あぜ道を走っている途中、後ろを振り返ると、青寧土手にある松の木の間から私たちを見送る母の姿がかすかに見えた。学校から帰る時間が遅くなっても、母はいつもその場所まで迎えに来てくれた。さらに遅い日は、家からはるか遠くの村の端まで兄たちと一緒に迎えに来てくれた。「おかえり、正熙」「ねぇ、正熙」など、歌うように語りかける母に対し「ここですよ」などと答えながら家路に着いた。
 
 「なぜこんなに遅くなったの?」と心配しながら、母は自分が身に着けていた襟巻きを私の首に巻いてくれた。走ってきたから体が温まり、汗が出ていたため、首に巻かれることが面倒だったこともあった。家に帰ると、オンドルに敷いた布団の下で私の茶碗を温めてくれていた。母は膳の脇に座り、私が飯を食べ終わるまで見守っていた。
 
ポソンは毎日泥まみれだった。母は夜中にポソンを洗い、オンドルで乾かした。翌朝、また履いていかなければならないからだ。夕食を食べてオンドルに座ると急に眠気が襲う。宿題をしながらついウトウトと眠ってしまう。すると母に起こされ、小便をさせられる。服を脱がされ横になると、泥のように眠ってしまう。9歳から15歳までの6年間、私はこうして過ごした。
 
 学校には弁当を持参するものの、冬になると凍ってしまう。冷たい飯を食べると私は腹を壊し、嘔吐することもあった。また、胃の調子が悪く、朝食を食べずに学校に行ったこともある。母は一日中心配した。しかし、当時の田舎では消化薬の類は何もなかった。数日間、飯を食べられなかったときは、隣に住む鍼師のおじいさんに鍼を打ってもらった。不思議なことに、その鍼さえ打てばすっきりする気がした。私の左手の親指の付け根には、今でも鍼を打った跡が赤くポツンと残っている。この赤い跡を見ると、当時の母の思いと鍼師のおじいさんを今でも思い出す。
 

  平和だが貧しい我が故郷――。学校に小遣いを持っていく必要がある日は、母がコツコツと貯めた1銭、5銭、10銭などの小銭をかき集め、私に渡してくれた。1ヶ月の授業料は当時の金で60銭だった。毎月これを納めるのは農村では大きな負担だった。特にうちの状況からすると大変な負担だったと思う。母は、1銭でも手に入れば私の学費のために貯めた。時には何升分かの米を売り、金をつくった。卵1個が1銭だったことを覚えている。兄たちに小遣いをねだられても「ない」と言い、小銭を大事に、つましく貯めた。母はタバコが好きだったが、たとえタバコが切れても私の学費のために貯めた金を使うことはしなかったようだ。

 
 学校に持っていく金が足りないときは、卵を数個、古い靴下に入れて持たせてくれた。学校の前にある文房具屋で母が持たせてくれた卵を出すと、日本人の店主が卵をチェックした。傷んだ様子がなければ1個あたり1銭として、鉛筆やノートと交換してくれた。しかし、雨が降る日や道に氷が張るような日に卵を持ち歩くと、滑って転んだはずみで卵が割れてしまう。そんな日は1日中気分が沈んだ。帰宅し、母にそのことを話すが、卵を割ってしまったことについては一度も叱られたことがない。「あらあら。転んで怪我はしなかったの」と聞かれただけだった。
 

  ある晩春の日の出来事だ。普通学校2、3学年の頃だったと思う。20里の田舎道を往復し、腹も減り、春の陽気のせいか心地よい疲れを感じていた。家に帰ると正午をとっくに過ぎていた。台所では、母が大きな器にヒユの葉のナムルと飯を混ぜていた。母は「帰ったのね。お腹がすいたでしょう」といいながら私を台所に呼び、そのピビンパを一緒に食べた。昼食の時間もだいぶ過ぎていたことで相当空腹だったのだろう。麦が半分以上混ざった飯にヒユのナムルとごま油を混ぜたピビンパの味は格別だった。私は今でも時々、家の者にヒユのナムルを買ってきてもらい、ピビンパを作って食べている。

 
寒さが厳しい冬には、夕食を食べ終えると家族が1つの部屋に集まる。色々な世間話をしていると楽しくて時間が経つのも忘れてしまう。兄たちは同じ部屋に父がいるため、タバコを吸うことができない。そこで父はあえて何も言わずに部屋から出る。兄たちに思う存分タバコを吸わせてあげようという父なりの気遣いだ。夜がふけ、話も一段落すると夜食が食べたくなる。母は時々、熟した柿や干し柿などを夜食に出した。時には地中に埋めてある白菜キムチを取り出し、夕食で残った飯の上にちぎったキムチを乗せて食べることもあった。これが田舎の農村で見られる冬の夜食だ。時にはムク(どんぐりを加工した食品)を出すときもあった。
 
 

【解説① : 亀尾普通学校の1、2学年と5、6学年の頃に優等賞を受けた朴正熙だが、病気で欠席した日数は1学年で18日、2学年で20日、3学年では16日だった。4学年以降になると健康状態は向上し、欠席日数は5学年で1日、6学年では3日のみだった。1931年、亀尾公立普通学校の6学年だった朴正熙少年の身長は135.8㎝、体重は30㎏、胸囲66.5㎝で、発育状態の評価は「丙」だった。朴正熙少年は3学年の頃から級長になった。華奢な体の朴正熙少年は、休み時間には運動場で、友達と「陣地取りゲーム」をしていたという。小さな石ころを指で打ち、親指と人さし指を広げて領土を得る、という遊びだ。】

 
 
 【解説② : 朴大統領はとにかくヒユの葉のナムルを好んだが、1970年代後半からは市場でもヒユのナムルは入手できなくなった。朴鶴奉付属室長と李光炯副官は、やむを得ず青瓦台の本館裏山に小さな畑を耕し、ヒユの種子を買って植えた。李副官にとっては、ヌルヌルしたヒユの葉のナムルは美味しいとは思えなかった。しかし大統領は、他のおかずには目もくれず、麦を混ぜた飯にコチュジャンとごま油を混ぜて美味しそうに食べていたという。大統領は「貧しかった頃を忘れないように」との思いから、ヒユの葉のナムルでピビンパを作り、食べていたようだ。】
 
(翻訳・構成=金恵美)
 

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