食事を一緒にすることはよくあっても、二人で喫茶店に行くのははじめてだった。
マロニエを教えてくれたのも、リバーの場合と同じく、伊吹である。アパートで顔を合せて雑談していたとき、駅の北口にマロニエという喫茶店がある、あそこのコーヒーはうまい、と伊吹はふとした拍子にいった。伊吹に教えられて、祥一は数日前、散歩の途中に寄ってみた。山小屋風の造りで、座席はクッションもない固い椅子だが、たしかにコーヒーはうまかった。画廊喫茶というべきところで、周囲の壁に無名画家の絵が並べられていた。
二人は駅前通りを左に折れた。その通りを少し行くと、駅の脇の踏切になっていて、踏切を渡ってしばらく行ったところに、マロニエはある。
駅前通りに曲がったとき、すぐ前を、白いブラウスにグレーのタイトスカートを身につけた、学生風の女が歩いていた。タイトスカートだけに、細い腰の下に、臀部(しり)の丸みが露わに躍り出ていた。その丸みが、微(かす)かに左右に揺れている。祥一は、思わずボケヅトの鬼胡桃(おにぐるみ)を握り締めた。同じように肉づきの豊かな洋子の臀部を思い出した。
洋子は、官能が濃(こま)やかというか、感覚の鋭敏な女で、身体を重ね合せていると、おびただしい汗が全身から噴き出し、絞るような声で歓びの呻きをあげる。その声には、ふだんの洋子とは別人のような激しさと力がこもっていて、腰のうねりに合せて濡れた身体を抱いているうちに、祥一の方もめくるめく快感にわれを失い、現実を忘れた陶酔境をしばしさ迷う。
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「君と結婚はできないよ」
と祥一が口にしたとき、
「そんなことはどうでもいいのよ」と洋子はいった。「ただこうしてときどき逢えるだけでいいの。想うことのできる人が、この世にひとりいる、それだけでわたしは満足なのよ。そういう人がひとりもいないとしたら寂しいわ」
それだけで満足なのよ、と洋子はいったが、しかし、本当は、洋子は悲しみを感じているのではないだろうか。感じつつも、それでも洋子は自分の存在を唯一の慰めにしている……。
やがてタイトスカートの女は踏切の手前を駅舎の方に曲がって行った。祥一は踏切の方に歩きながら、なおしばらく女の後ろ姿を目で追っていた。
踏切にさしかかったとき、警報機が赤い灯を点滅させて鳴り、遮断機が降りた。伊吹と祥一は遮断機の前に並んで立ちどまり、電車の通りすぎるのを待った。
だが、この踏切は、いったん遮断機が降りると、ふたたび上がるのにしばしばながい時間がかかる。ラッシュ時のいま頃は殊にそうだ。上り下りの電車が頻繁に往来するために、遮断機はかなりの時間降りたままになる。国電のあいだに、急行列車や貨物電車などの通過が混じったりすると、さらに時間がかかる。果たして遮断機はなかなか上がらなかった。上り電車が通過すると下り電車が接近してくる。下り電車が通り過ぎたかと思うと、もう次の上り電車がすぐ斜向かいのホームに停車していて、発車を待っている。
祥一は次第に苛々してきた。ついいましがた目にした学生風の女、彼女から連想された洋子のことも、彼の中でわだかまっていた。彼は伊吹にいった。
「どうだい、マロニエでコーヒーを飲むより、今夜はどこかでもっと酒を飲まないかい」
1984年7月28日4面掲載