趙甲済
今年は朴正熙(1917~1979)の死去から30年目にあたる。彼は韓国を近代化させた民族史に残る大人物であり、20世紀を代表する世界的指導者だった。彼の62年にわたる波乱万丈な人生の中でも、特にドラマチックだった62の名シーンを抜粋し、紹介する。この62シーンは、朴正熙個人に限らず、韓国人らの一生に大きな影響を与えたものでもある。特に説明をつけていないシーンは、筆者が編著した『朴正熙伝』(全13巻)から抜粋したものだ。
1)出生:命を絶とうとした母と死闘を繰り広げ、正熙は世界に飛び出した!
朴正熙の姉・朴在熙(~1996年/享年83歳)は1987年10月6日、ソウル・西大門区滄川洞の自宅で、弟が生まれるまでの経緯を記者らに向けて話した。
「母が弟を妊娠したのは、貴熙姉さんが義兄・殷龍杓さんと結婚した後でした。姉は、正熙が生まれた年に娘を産みました。45歳で正熙を身ごもった母は、娘と同時期に妊娠したことを恥ずかしく思ったのでしょう。当時のわが家は大変貧しく、家族が増えることは大きな負担でした。そのため、母は赤ん坊をなんとか堕胎させようと試行錯誤していました。田舎の人たちがよく使う方法ですが、しょうゆをどんぶり一杯飲んでは寝込んだり、小麦のふすまを煮込んでは気絶したりしていました。踏み石から飛び降りてみたり、薪の束の上で転がってみたりもしました。しかしいくら試しても効果はなく、とうとう猫柳の根を飲んで気を失いました。目を覚ますと、お腹の中で赤ん坊が動いている気配がなかったため『うまくいったわ』と思っていたら、数日後にはまた動き始めたそうです。その後、母はわざと踏み臼を腹にあてたまま寝てしまいました。自ら臼の下敷きになったのです。当時私は4歳でしたが、その光景を見て、母が死ぬと思って散々泣きました。母は立てないほど腰を痛めましたが、お腹の子どもはそれでも元気に動いていたそうです。そこで母は『仕方がない。子どもが生まれたら布団に包んで投げ捨ててしまおう』と決め、堕胎は諦めたそうです」
朴在熙の証言に登場する「母と同時期に妊娠した娘」とは、朴正熙の姉・朴貴熙(~1974年)のことだ。以下は朴貴熙の息子・殷熙萬が母から聞いた話だ。
「私(貴熙)が実家に行ったとき、母が『誰にも言えないこと』としながら、妊娠した事実を私に打ち明けたの。母と私は裏山に登った。私は母が万が一怪我をしたときに備えようと低いところに立っていたわ。母は高い所から何度も飛び降りたの。一度は私が母を抱えながら一緒に転がったりもしたわ。正熙が生まれる10日前、私は娘・鳳男(~1995年)を産んだ」
「弟・正熙が生まれた日の記憶は、昨日のことのように鮮明に覚えています。その日、私は庭で遊んでいました。急に母を思い出し『お母さん』と声をかけましたが見つからないのです。部屋のドアを開けると、母は布団をかけたまま唸っていました。私は母がまた赤ん坊をおろすための薬でも飲んだのかと思い、怖くなって父を探しに走りました。父が作ってくれたコッシン(靴)を履いて走りました。荒れ野で転び、かかとから血が流れてもものともしませんでした。5里は走ったと思います。息が切れてぜいぜいしているところを父が見つけてくれました。父は慌てて田から出て、ヒモをほどいたものを私の傷に巻き、私を背負って家に戻りました」
生まれることのできないはずだった赤ちゃんは、1917年11月14日(陰暦9月30日)、午前11時頃に生まれた。
「家の門をくぐると、泣き声が聞こえました。父と部屋に駆け込みました。母は一人で赤ちゃんを洗い、横に寝かせ、疲れ果てた様子でした。赤ちゃんがモゾモゾしている姿はとても可愛かったことを覚えています」
慶尚北道善山郡龜尾面上毛里、金烏山の端にたたずむ簡素なわらぶき家の門にはその日、真っ赤なコチュ(唐辛子)と、炭を挟んだ縄ヒモが掛けられた。しかし、朴正熙が胎児としての生を終え、この世に生まれてからも困難は続いた。
「母は母乳が出なかったため、正熙は母乳の味を知らずに育ちました。ご飯に水と干し柿を加えて煮たおかゆのようなものを匙で与えました。牛乳の代わりです。ひどい便秘になって困ったこともありました」
朴在熙の言葉を裏付けるものとして、朴正熙の姉・朴貴熙が息子の殷熙萬に話した思い出話がある。
「娘を産み、産後の処置を終えて実家に行ったところ正熙が生まれていました。母は母乳が出なかったため、私が正熙に授乳しました。実家は、婚家から洛東江を船で30分いったところにありました。私は授乳のため、頻繁に実家に行きました」
「正熙がまだ2歳で歩けなかった頃ですが、母が正熙を兄(長男・東熙)の奥さんに預けて外出しました。奥さんは針仕事をしていたようですが、正熙が這いながら敷居の下に転がり落ちてしまいました。その下には火鉢が置かれていたのです。正熙はその真っ赤な火鉢に落ち、1回転しました。正熙は真っ赤な炭を全身にかぶってしまいました。髪も眉毛も全部焼け焦げてしまいました。奥さんと私は、正熙の顔から炭を払い、口の中に入った炭を掻き出すのに必死で、正熙が着ているチョゴリの両袖が燃えていたことに気づきませんでした。チョゴリはボロボロになり、火は消えたものの、両腕にひどく火傷を負いました。父は黄土を水に浸して傷に塗り、麻の切れ端で覆ってあげました。1ヶ月ほど経つと傷跡も落ち着き、ようやくかさぶたができ始めました。当時の火傷の跡は正熙が死ぬまで残りました。正熙は、袖が短い服はあまり着ないようにしていましたね。この事件を境に、色白だった正熙が浅黒くなったのです」
(翻訳・構成=金恵美)