序曲(23)  金鶴泳

日付: 2009年02月17日 03時51分

 ズボンのポケットの中の三個の鬼胡桃(おにぐるみ)を握り締めながら、祥一は、伊吹にはじめてキッチンリバーに連れて行かれたそのときのことを思い返していた。
 今夜も伊吹はリバーで食事するつもりらしい。伊吹とリバーに行くのはあの晩いらいだった。いつもは河野屋に行っている。伊吹は、ひとりで食事するときはよくリバーを利用しているようだ。祥一と岡田は河野屋しか利用しない。
 またさわやかな風がひとしきり強く吹きつけてきた。繁華街だけに、人通りも繁くなっている。スシ屋の店員が店の横の焼却炉でゴミを焼いている。その向こうの遠くの空が夕焼けに輝いていた。
 西荻窪に引越してきてまだ三週間だが、祥一は西荻窪の町に好感をおぼえていた。荻窪と吉祥寺の狭間に取り残された感じがある。つまり、荻窪や吉祥寺にくらべると鄙(ひな)びている。駅から十分も行くと、ところどころに畑がひろがっている。五日市街道にはけやき並木が続いていて、散歩の途中に目にするその眺めもよかった。駅のたたずまいも荻窪や吉祥寺のそれにくらべるとずっと田舎じみていて、そんなところにも彼は親しいものをおぼえた。武蔵野の面影が、まだ微かに残っている町だった。

 今夜はリバーでビフテキではなく、シチューが食べたいと伊吹はいう。最初にリバーに連れて行かれたとき、風采に似合わず高価なビフテキを頬張っている伊吹に祥一は驚かされたものだが、今夜はシチューだという。おやおや、という気持が祥一の胸をよぎる。
 風采に反して、伊吹は案外ブルジョワ的人間なのではないか、と祥一は思うようになっていた。大学の自治会委員をしていたというから、左翼なのかなと思っていたら、プルードンやクロポトキンなどのほかに、北一輝も好きだなどという。無政府主義と右翼がどういうふうに噛み合うのか祥一にはわからなかった。志賀直哉的なものと太宰治的なものが祥一の中で混淆(こんこう)しているように、伊吹の中でも両方が混活しているということなのか。『資本論』も読んだというが、伊吹は別にマルクス主義者でもなかった。どちらかといえば、アナーキストであり、また伊吹の部屋に並んでいる本からして、どちらかといえば左というより右に近い人間に見えた。自治会委員は左翼系だとばかり思っていただけに、こういう人間も自治会委員の中にいるのかと、これも祥一にとってはひとつの発見だった。
 キッチンリバーの数十メートル手前に碁会所がある。岡田の行きつけの碁会所である。その前にさしかかったとき、祥一は入口のガラス戸に近づき、中をのぞいてみた。果たして岡田はそこにいた。老人を相手に真剣な顔つきで碁を打っていた。
「岡田は今夜もここだよ」
 祥一はニヤニヤ笑いながら伊吹を振り返った。伊吹は道の端に立ち、正面に目をやったきり碁会所をのぞこうともしなかった。冷笑に近い笑いがその顔に浮かんでいる。
「まったく、彼は、碁に夢中だねえ」
 と祥一が声をかけても、伊吹は無言のままである。
「彼は、単純な人間だ」
 しばらく歩いたところで伊吹は不意にいった。
「単純?」
「ああいう調子で生きられる人間もいるんだねえ。俺も、彼のような人間になりたいと思うことがあるよ」
 伊吹との会話では、いつのまにか「です」調があらかた消えていた。それだけお互いに同類意識といったものを持ち合っているということだろうか。伊吹は時折無遠慮な物のいいようをする。いまの言葉もそのひとつだった。

1984年7月20日付 4面掲載


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