「パチンコ屋です」
祥一は、仕方がないといった気持で答えた。しかし奥さんは、さわやかな笑いをその美しい顔に湛(たた)え、
「パチンコ屋さんをなさっていらっしゃるんですか。主人もよくパチンコ屋にはまいりますわ。いま頃は、絵なんか放り出して、どこかのパチンコ屋でパチンコをしているんじゃないかしら」
屈託のない口調子だった。奥さんは、職業に対しても何の偏見も持っていないらしかった。民族や職業に偏見を抱いているのは、むしろ自分の方ではないのか、と祥一は考えさせられたものである。
祥一はまだ家主と顔を合せていない。二人の息子さんとも顔を合せたことがない。それだけ中庭が広いせいもあるが、家主の娘さんを除いて、母屋とアパートとの接触はほとんどないようだった。それどころか、祥一は、新聞社に勤めているらしい娘さんの夫とも顔を合せたことがない。そういうところが祥一にはかえって好都合に感じられた。気のない愛想付き合いは彼には煩わしかった。苦痛でさえあった。いいところに引越してきたと彼は思った。
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濡れた道に相変わらずゴム草履をビチャビチャ鳴らしながら歩いていた伊吹が、沈黙のあとに口を開いて、
「金さんは、雨は好きですか」
ときいた。妙なことをきくものだな、と祥一は思った。
「梅雨のこういう雨は嫌いですねえ。心にカビが生えてくるような気がする」
鬱陶しい季節なだけに、ぼくは紫陽花が好きなんですよ、あれを目にすると、心の中に光の玉が飛び込んでくる気がする-そうつけ加えようとしたが、祥一は口をつぐんだ。伊吹が花に興味を持っているとは思えなかったからである。
「俺はこういう雨は好きですね。濡れた心がさらにびしょびしょになる」
妙なことをいうもんだな、と祥一はまた思った。キザな言葉にもきこえた。
「伊吹さんの心は濡れているんですか」
「濡れている。大いに濡れている」
どういう意味かときこうとしたとき、狭い道から広い大通りに出、二人はそこで右に曲がった。駅の方に少し歩いてこんどは左に折れ、しばらく行ったところにキッチンリバーはあった。カウンターがあり、後ろにテーブルが二つある。客が十数人入ればいっぱいになる程度の広さだったが、店内は明るく、そして清楚な感じだった。
テーブルに数人の客がおり、二人はカウンターに向かって坐った。メニューを開き、祥一は値の安いものを捜して、結局ハンバーグとライスにした。ところが伊吹は、メニューを見もせずにビフテキとライスを注文した。それも、サーロインステーキで、最も値の張るものである。
祥一はびっくりした。雨が降っているというのに素足にゴム草履をつっかけ、時代遅れの古ぼけた蛇の目傘をさし、ボサボサの髪に不精髭をはやした男が、サーロインステーキを注文している。
「それからポタージュスープと野菜サラダもね」
とさえ伊吹はいった。
祥一はますます伊吹がわからなくなった。サーロインステーキを注文するほどの男が、なぜ素足にゴム草履なんかを履いているのだろう。カラーもなく、ホックも外したままの色褪(あ)せた学生服を着ているのだろう。
性格破綻者という言葉が胸をよぎったのはそのときだった。何か違う。どこかが、根本的に変わっている。
部厚いステーキを頬張っている伊吹を横目に見ながら、祥一はそう思ったものである。
1984年7月19日付 4面掲載