私が会った「西海交戦」参戦北韓兵士たちの話

「平壌に行ってきた日の夕方、艦長は艦に非常召集令を出しました。その日だけは、艦長が、油をいっぱい入れ、武器や艦船の点検および弾薬も最大限積めと指示しました。」
日付: 2009年02月16日 22時49分

張真晟(脱北者)
私は、月刊「新東亜」2006年7月号に、「延坪海戦と西海交戦は金正日の指示」という内容の文を寄稿した。新東亜は、金正日の指示で、労働党統戦部が企画して海軍司令部が推進した「西海交戦」と「延坪海戦」を特ダネで紹介した。
 
金正日は、「延坪海戦」がわれわれが負けた戦争なら、2002年の「西海交戦」は勝った戦争だと絶賛し、NLLこそ南北経済協力で(南から)お金を儲けながらも、一方では南北の葛藤を誘発し続けられる新しい戦線-戦略地域だと言った。
 
私は、北にいた時、統一戦線事業部で勤めながら、「西海交戦」の結果報告書の作成のため交戦参戦者たちを訪問したことがある。「交戦」の保安のため朝鮮人民軍11号病院の特別病棟に入院した水兵らは外部と一切遮断されていた。彼らの年齢は概して19歳から(北朝鮮は義務兵役制で中学校を卒業する16~17歳から男は10年、女は7年間軍服務する)27歳までだった。
 
私は、まず戦闘をしてみた所感から訊いた。おもしろいことは年上であるほど韓国警備艦の威力に怖じけづいたのか沈黙を守るのに、若い水兵らは生きて帰ってきた安堵感と、勇敢性の誇示で休まずぺちゃぺちゃしゃべった。だが、彼らのお話しは聞く私たちの肝までを冷やした。
 
「まず、軍艦の差を感じました。あちらの警備艦は速度もは速く、すべての武器が自動化されていて、命中率が高かったのです。現代武器の威力と優越性を実感しました」。同時に若い彼らは秘密保安である北側の挑発意図も打ち明けた。
 
「平壌に行ってきた日の夕方、艦長は艦に非常召集令を下しました。元々油の事情で、勤務に出動の時は半分だけを入れるのが原則です。われわれ海軍には旧ソ連からの駆逐艦が二隻があります。駆逐艦というものの、事実あの子(南)らの警備艦の水準ですね。
しかし、われわれにはその艦船が最高なので、東海と西海に各々一隻ずつ運営されます。油がなくて、半分だけを入れて出るため、あちら(南)のように警戒地域を巡察できず、停めておいて帰ってきたりします。」
 
彼らの話によれば、北韓海軍の事情は真に気の毒だった。艦船はいつも海の上に浮いているため貝類や各種海藻らが艦体につくことになる。これを防ぐためには定期的に防止材を塗らねばならない。それでこそ艦船の速度が保つのに、その防止剤すら5年ぶりに初めて塗ったということだ。
 
「ところが、その日だけは艦長が油をいっぱい満たし、武器と艦船の点検および弾薬も最大限積めと指示しました。艦船の点検中、艦長は補助操舵が故障したのを発見して機関長に時間がないから直ちに修理しろと指示しました。補助操舵というのは、基本操舵に故障が起きた場合受動的に艦船を操縦する装置です。
 
われわれは、直ぐ戦闘があると察しました。その日に備え、何日か前、艦長の指示でわが警備艦の前にレールも溶接して付けましたよ。あの子ら(南側)の艦船が、われわれの艦船より鋼が良いため衝突の時、わが艦船を保護するためであり、また、そのレールさえ付ければ、そちらの子(南韓)らの艦船に穴をあけることができると計算しましたよ。」
 
私たちはその部分に対してさらに聞くのを断った。その理由は、統戦部の「西海交戦の企画案」を予め知っていたので、海軍司令官の特別指示を受けて自らの直属上官である8戦隊長にも内緒で、艦長が平壌から帰ってきた後、単独命令した部分であることを知っていたからだった。
 
水兵たちは、今度は自分たちの英雄談に対して冗長に話した。「映画で見れば、戦闘中対話を交わすが、それは嘘です。砲声が鳴ったらその時から耳には何も聞こえません。それで私たちは、そばの人と話す時は、銃で鉄兜を叩いて、すべての戦闘状況を手でやりとりして戦いました。
 
まず、艦長が死んで、代わりに艦船の保衛部指導員が戦闘を指揮しました。艦長は、三つの破片を浴びて死にましたが、彼が補助操舵を修理するように指示しなかったら、私たちは多分水葬されたでしょう。基本操舵が故障したため、私たちの艦船はその場でぐるぐる回っていたが、それがおかしかったのか敵艦船が見物をしたんです。私たちはついに補助操舵で船を操縦してやっと生きて帰られたのです。」
 
後日、三つの破片に打たれて死んだ艦長の話は、朝鮮人民軍協奏団の「実話劇」として再現されて、金正日の前で公演された。「お父さんの遺産」という題名のその「実話劇」は、愛する三人の娘にお父さんが残した遺産とは、各各破片一つずつ、すなわち復讐心ということだ。金正日は、その公演を見てから涙を流しながら、必ず復讐しろと一緒に観覧した軍人たちを励ました。
 
私は、最後に交戦参加者として何を最も望むのかを訊いた。今まで沈黙を守っていた年上の軍人が話した。「綿入れがほしいです。あちら(南韓)子らは皆が防弾服を着用し、戦闘状況に突入すると、甲板の下に消えるのに、私たちはむしろ甲板上に上がって、敵の標的になりますね。最も恐ろしいのが破裂弾です。
私たちの頭上でさく烈する爆弾ですが、鉄の破片が瞬間にひょうのように降り注ぎます。今ここに入院中のある兵士は、身体にその破片が230ヶも刺されています。綿入れさえあっても、破片をすこし減らしそうです。」
 
その報告が上がった以後、直ちに艦船の防弾問題を解決することに対する金正日の指示が下った。だが、その指示は貫徹されなかった。北韓警備艦の威力は戦車砲にある。波で船が揺れても目標を正確に照準でき、火力もすごくて、北韓艦船の長所になっている。
 
「国防研究所」や「第2経済」の技術者らは、艦船の防弾部分に対して討論を繰り返したが、艦船の重さと速度のため代わりに戦車砲を放棄せざるを得ないため、あきらめた。防弾の代わりに、火力を追加する方向で短所を補完した。ロシアから1960年代に導入したバルカン砲だが、1分に1500発が発射されるため、敵の警備艦の火力を凌駕すると金正日に報告された。
 
そして、防弾服の代わりに「綿入れ」も解決された。恐らく、これからまた「西海交戦」が再発すると、その時は北韓の水兵たちが綿入れを着用して出てくるだろう。私は、「西海交戦」参戦者たちに対する南・北間の優待の差で失望した。北韓は、艦長と保衛指導員に共和国最高勲章である「英雄称号」を授け、遺物らを戦争記念館に展示するようにし、他の水兵らには国旗勲章1級と共に、金正日の名義でアパートや家電製品らを支給した。
 
今でも「西海交戦」参戦者たちは北韓の英雄として、軍人の亀鑑として宣伝されている。金大中・盧武鉉政府の時、北韓は陸地では南北経済協力を通じて経済的利益を追求する一方、南北の葛藤地域を海に移して、「平和脅迫戦略」で一貫した。北韓は、今もアメリカを相手に「北核政治」をやり、韓国に対しては「NLL政治」をやっている。「西海交戦」は、北韓の強硬戦略の手段として必ず再発すると思われる。
 
www.chogabje.com 2009-02-16 13:10

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