姜哲煥(脱北者、朝鮮日報記者)
東海地区海軍司令官を歴任した方鉄甲氏が平壌市の人民委員会委員長に任命されたことが北韓中央TVを通じて知らされた。毎年大々的に行う「6.25行事」に演説者として立った姿を見ると昔のことが思い出される。収容所の中でそこまで苦労したにも、健康を保ったから、さすが軍司令官の体力は違うと思われる。
70代のおじいさんになった方鉄甲前司令官を思うと、今でも20年余り前の燿徳収容所での最初の出会いが目の前に繰り広げられるようだ。
1980年代中盤の夏、燿徳収容所の10作業班のとうもろこし畑の警備に立った私は、第2作業班のとうもろこし畑の境界線を巡回中、背が高く海軍将校のレインコートを着た見目好い警備員のおじさんに会った。
当時、私は収容所の中の学校を卒業したばかりで労働に動員されたが、背が低く仕事ができそうもないから作業班長は私にとうもろこし畑の警備任務を任せた。方鉄甲氏も過去の地位もあり、健康が良くなくて第2作業班長が特別に配慮して警備員として動員された。
トウモロコシが熟す一ヶ月を警備兵として勤めることになり、1ヶ月間ずっと方鉄甲氏と会うことになった。
「君は10作業班だからチェポ(帰国在日同胞)だろう」、「はい!」
「なぜここに入ってきたの?」、「おじいさんのため入ってきましたが何の罪を犯したのかは分かりません」、「そう?」
「おじさんは誰ですか?」、「私のこと知らないの? 方鉄甲を?」 私はその時収容所に広く広まっていた東海地区海軍司令官だった方鉄甲が私の目の前に立っていることが信じられなかった。
現職の海軍司令官が肩章だけ取られたまま燿徳(ヨドク)収容所に連れられてきた日、収容所の警備兵らは方鉄甲を見て敬礼をした。中隊長級の軍官(将校)らも方氏をどのように対すべきか迷ったが、収容所の保衛部政治部長が、「反動の奴」に何が敬礼かと警備兵を叱って、反動に好意を施したり敬礼する者は容赦しないと脅した。
その時から方氏は一般収容者らと同様に強制労働に動員され、収監されて3ヶ月で栄養失調で死亡直前になった。首に入った力を抜くと、保衛員の特別指示によって囚人らが集団虐めや暴行、強制労働で、方氏は精神的に肉体的に徹底して壊れていた。このような方氏の境遇をかわいそうに思って彼を生かすための作業班長の特別配慮があって、死んだらひょっとして後日の禍があるではないかと思った保衛員も見逃してくれた。
収容所の中の子供と海軍司令官の出会いはこのように始まった。年齢と社会的地位を乗り越えて、多くの時間話す機会があった。
方鉄甲氏は、若かった時の軍団体育競技で1等をした「鋼鉄」のような体力の話や、潜水艦部隊の南韓浸透、など言えない話がなかった。主に、自身の武勇談であり私は我を忘れて聞いただけで、方氏も苦しい時間を費やしでもするようにずっと自分の自慢話をした。
夢のようだったトウモロコシ畑の警備生活も終わり、各々作業班に帰ることになった。方鉄甲の長男の方・チョルは、人民軍特殊部隊出身で鉄道省の社労青指導員として勤めて出世街道を走ったが、お父さんのため収容所に連れられてき、平壌医大に通った長女のジョンスクを含む4人の娘たちもぞろぞろ燿徳収容所に連れられてきた。
1987年、私たちの家族が燿徳収容所から解放されてから2年後、方鉄甲氏の家族も収容所から解放されて耀徳郡の邑に配置された。その時、生きて再会した感激はどう話せようか!
方氏は、耀徳郡の都市経営事業所の倉庫長に任命された。海軍司令官から倉庫長に、境遇はひどかったが、(収容所から)生きて出たことだけでも将軍様(金正日)に感謝すべきだった。彼の実弟の方哲鎬が、当時中央軍事委員会の委員で、軍団長級の高位幹部として在職中だったので、耀徳郡党の幹部たちも方氏に下手に対することができなかった。
方哲鎬氏が兄に会いに耀徳郡まで訪ねてきた。彼は兄に会うや、「党の信頼をそのように裏切り...兄が恥ずかしい」と大声で叱るのだった。そばに幹部らが立ち並んでいたため仕方なかった。
だが、二人きりになるや、どんなに苦労したかと涙を流したという。
金正日政権の下では偉いポストに就くのも容易なことでないと思う。
うっかりすると、司令官であれ何であれ、収容所に入れられて奴隷の生活をしなければならないため、官位が高くてもいつ一度でも気楽に生きられるだろうか。
それでも死なずに生き残り、平壌市人民委員会の委員長に昇進した方鉄甲前司令官に敬意を表する。そして統一のその日まで生き残ってまた会うことを期待する。(姜哲煥、2006/07/04)