あの夜の会話で、祥一は、伊吹は志賀直哉が嫌いで、太宰治を好いているのを知った。正直のところ、祥一は、最近太宰治に恐いものを感じはじめていた。
惹かれすぎるのである。惹かれて、死に引きずり込まれるような気がするのである。生きるために小説を読んでいるのに、太宰の作品は、読者を死に誘惑しているふうに感じられる。太宰の愛読者は、本当は強い人間なのではないだろうか。強いから読み耐えられるのではないだろうか。祥一はそう考えるようになっていた。自分に人間失格的な部分があるために、『人間失格』を読み返すのが恐くなっているのだろうか。伊吹はその点についてどう思っているのか。
大通りの手前の、車の通らない細い道に二人は曲がった。伊吹は濡れた道路にゴム草履をビチャビチャ鳴らしながら歩いている。勤め帰りらしい中年の男が脇を通りすぎて行った。路地を少し行ったところの道端に紫陽花(あじさい)が咲いていて、それが外灯の光に照らされてみずみずしかった。雨のせいで、水気をたっぷり含んでいる。
祥一は紫陽花が好きだった。紫陽花の花言葉は、普通、「移り気」とか、「浮気」とかいわれているが、祥一は自分の中で「むら気」と称していた。萩原朔太郎に「こころ」という詩がある。
「こころをばなににたとへん
こころはあぢさゐの花
もも色に咲く日はあれど
うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて」
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祥一が最初に紫陽花に惹かれたのは、二年前の梅雨期のある日の散歩の途中、重苦しい曇天と雨の中で偶然目にした紫陽花のみずみずしさ、憂いを含んだ明るさのせいだが、この詩を読んでいらい、彼はさらに紫陽花に関心を抱くようになった。紫陽花の花弁の色はまさに心の色だと思った。「移り気」とか「浮気」とかではなく、花言葉としては「むら気」が正当だと思った。心はむら気である。変転極まりないものである。紫陽花の色の変化はそれを象徴しているように思われた。朔太郎の詩はそれをうたっているように思えた。
少なくとも祥一はそう解釈しているのだが、たまたま家主の奥さんも紫陽花が好きだった。引越してきた日の午後、伊吹らと昼食を共にして帰ったあと、祥一は挨拶のために母屋に行ったのだが、アパート--学生向きの簡易アパートのせいか、アパートには名前もなかった--と家主の家族の住んでいる母屋とのあいだはかなり広い中庭になっていて、樹木が鬱蒼(うっそう)と茂り、ちょうど満開の紫陽花が二十株ほども咲いていた。
ベランダの椅子に坐って五十年配の奥さんとしばらく話したのだが、
「紫陽花がずいぶん多いんですね」
庭に目をやりながら祥一がいうと、
「紫陽花が好きなものですから、自分で挿し木して、殖(ふ)やしているんですよ」
と奥さんはいった。
「半分ほどは普通の西洋アジサイですが、変わった種類のものもございます」
と奥さんは、庭のあちこちに咲いている紫陽花を指さしつつ、
「あれはヤマアジサイ、向こうのはクロヒメアジサイ、それから、あそこの杉の木の下に咲いているのはココノエタマアジサイ……」
奥さんはひとつひとつ種類を教えてくれた。
中国産の紫陽花もあった。
アメリカ産の紫陽花もあった。
祥一は奥さんが紫陽花についてたいへん詳しいのに驚かされた。
第3201号 1984年7月14日(土曜日) 4面掲載