「ぼくも、伊吹さんも」と岡田は伊吹の方に目をやって、
「同じように留年中なんですよ。もっとも伊吹さんは法学部の三年で、ぼくはまだ教養学部の二年ですけど」
岡田の言葉で祥一は伊吹の名を知った。
「ぼく、金といいます。工学部の合成化学科に籍を置いています。この春三年に進級したばかりです」
祥一は自己紹介した。
「ぼくは岡田といいます」
岡田は微笑を浮かべて名乗った。
「伊吹です」
伊吹は無表情な顔でいってぴょこんと頭を下げ、それからよく晴れている空を見上げた。服装といい、不精髭(ひげ)といい、変わった学生だな、と祥一は思った。祥一も岡田もオープンシャツ姿である。少し蒸し暑いくらいの陽気なのに、伊吹は色褪(あ)せた学生服を着ている。
伊吹の不愛想な挨拶を補うかのように、岡田がまた口を開いた。
「伊吹さんも、この春三年に進級したんですよ。進級したっきり、ぜんぜん大学に行っていないようだけど」
伊吹に視線を向け、笑いながらそういってから、腕時計に目をやり、
「おや、もう十二時をすぎている。どうです、伊吹さん、飯を食いに行きませんか」
そしてこんどは祥一に、
「金さんも一緒にどうですか。金さんもそろそろ飯の時間でしょう。荷物の整理は飯のあとにしたらどうですか。早速で何ですが、ぼくらがいつも利用している定食屋が駅の近くにありましてね、そこにご案内しますよ」
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岡田に出会ってからまだ一時間と経っていない。にもかかわらず、岡田は、もう祥一を食事に誘っている。根っから人なつっこい性質のように祥一には思われた。不愛想な伊吹とつき合いが成立しているらしいのもそのせいに思われた。
「そうですね。ぼくもちょっと疲れたし、連れて行って貰いましょうか」
祥一は応えた。
「一緒に行きましょう」
岡田は伊吹の意向については問いもせずにいった。
祥一はちょっと部屋に戻り、外したガラス窓を元に戻したあと、一階の共同洗面所で顔と手を洗い、雑巾(ぞうきん)で足を拭いてから、行李(こうり)の中から靴下をとり出して履いた。それから新聞紙にくるんでおいた皮靴を玄関に持って行き、サンダルと履き替えた。岡田もサンダルを靴に履き替えていた。だが伊吹はさっきのゴム草履のままである。
「では行きましょう」
岡田がいって、三人は駅の方に歩き出した。
そのとき岡田に連れて行かれたのが河野屋だった。駅の脇の踏切の、すぐ斜向かいにある店で、店内は広いが、安定食屋だけにテーブルも椅子も粗末である。白いはずの周囲の壁も茶色がかっている。
それがきっかけで、祥一は食事は河野屋で済ませるようになった。一人で行くことが多いが、岡田と一緒のときもある。伊吹と一緒のときもある。三人で一緒に行くこともある。三人ともそれぞれの流儀で生活しているせいか、顔を合せて言葉を交わすのは、食堂で食事をしながらというのがほとんどだった。大学に通っている者はたいてい学生食堂か、でなければ大学近くの食堂で夕飯をすませて帰ってくる。兄妹で住んでいる者は自炊である。河野屋を利用しているのは祥一たち留年組の三人ぐらいのものだった。
第3193号 1984年7月7日(土曜日) 4面掲載