祥一は、憂鬱な気持でベッドの縁から立ち上がり、階下の台所に降りて行った。次妹の利子や次弟の祥吉はすでに夕飯をすませ、隣りの部屋でテレビを観ていた。母がひとり流しに向かい、洗い物をしている。
台所に行くと、祥一は冷蔵庫からビールを取り出した。栓を抜いてコップに注ぎ、テーブルに向かって無言のまま飲みはじめた。黙り込んでいる祥一を母は怪訝(けげん)そうに振り返った。
「純子は?」
「家出したよ」
祥一は無表情に答えた。
「何だって?」
母は驚いた顔できき返した。
「部屋にはいない。衣類もあらかたなくなっているし、コートもスーツケースもない」
母はあわてて二階に駆け上がって行った。
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テーブルの上に、おかずがいくつか並んでいる。祥一は、キムチをつまみながらゆっくりとビールを飲んだ。母の漬けたキムチはおそろしく辛い。辛いが、うまい。いつだったか、そのうまさに惹かれて頬張りすぎ、腹をこわしたことがある。
これが朝鮮の、本式のキムチなのだろう。本式のキムチの味を母はいまも忘れず、漬け続けている。ということは、母もいまだに生粋(きっすい)の朝鮮人魂を抱き続けているということだろう。それが、一世の一世たるゆえんなのだろう。母にも、純子のこんどのことは、父ほどではないにしても、理解できないのではないか。
「せっかく大学に入ったんだから、少しはウリマル(朝鮮語)を喋(しゃべ)れるよう、そっちの方の勉強もしなよ」
祥一が大学に入ったばかりの頃、母はそういったことがある。もっともな意見だが、彼はいまだに朝鮮語の勉強をはじめていない。朝鮮語を喋れなくても少しも困らないせいもあるが、それだけ朝鮮は祥一の中で遠いということでもあろう。それが二世の二世であるゆえんであろうか。
純子が家出しても祥一はさほど動揺をおぼえない。父に反抗して出奔したのであり、不良少女が家出したのとはわけが違う。きっとスーパーマーケットの男としめし合せて家を飛び出したに違いないが、その男だって、祥一はまだ会ったことはないものの、純子は高校時代から知っていて、純子が真剣に結婚を考えているからには、不良青年でもあるまい。男の名が川瀬功であるとは先夜きいた。住所はきかなかったが、川瀬の勤務先であるスーパーマーケットも知っている。
明日、そのスーパーに行って、川瀬に会ってみようと祥一は考えていた。純子と一緒に駆け落ちしたとすれば、川瀬ももうそこにはいないかも知れないが、とにかく、まずはじめにそこに行ってみる必要がある。
母が二階から降りてきた。おろおろした表情で、
「どこへ行っちまったんだろうねえ。抽出しの中の貯金通帳もなくなっているよ」
「じゃあ金は充分持って行ったわけだ」
祥一の呑気(のんき)な口調が母の癇(かん)に障(さわ)ったらしかった。
「自分の妹が家出したっていうのに、お前はよくそうやって平気でビールなんか飲んでいられるね」
母のその声高な口調がこんどは祥一の癇に障った。
アボジが悪いんだ、アボジが頑(かたく)なすぎるんだ、その点はオモニ(母さん)だって同じだろう-そういおうとして、彼は言葉を呑み込んだ。
第3190号 1984年6月29日(金曜日) 4面掲載