張哲賢(「新東亜」2008年10月号)
・黃長燁の亡命に震怒した金正日が「黃長燁くらいの人士を拉致して来い」と特命
・1997年3月、統戦部、対外連絡部、作戦部、35号室の緊急合同会議
・「越南(脱北)して韓国に行った者の中、北朝鮮に家族がいる人士を探せ」、最終候補は3人
・誘引は統戦部、拉致は35号室、対外連絡部、作戦部の共同作戦
・統戦部の専門要員が書いた手紙、海外工作線を通じて呉益済に伝達
・「母子が北京に来た」・・・「丹東で待っている」・・・「列車から降りられない」
・感激の出会いの瞬間、国境を越えた汽車・・・平壤の紋繍招待所に事実上監禁
・観光地案内員に金を渡して「私が拉致されたと外国人に知らせてくれ」
・拉致責任者の安京浩は1級勲章、手紙を代筆した統戦部要員は局長へ昇進
呉益済(オ・イクジェ)を覚えているのか。大統領選挙を控えていた1997年8月、突然の平壤行きで大統領選の版図を揺るがした、呉益済前天道教教領を覚えているのか。有力候補だった金大中総裁が率いる新政治国民会議の創党発起人であり、顧問を歴任した彼の入北は、金大中総裁に対する「(思想的)色論争」に発展し、メーガトン級のイシューになり、政治圏はその年ずっと呉益済問題で沸騰した。特に選挙を目前とした12月に、彼が平壤から金大中総裁に書いた手紙が公開され一層大きな波及を呼び、この「呉益済の手紙」波動は、金大中候補の落選のため当時国家安全企画部がやった工作だった、という検察の捜査結果が、金大中政府が出帆してから発表された場面もあった。
それから11年が経った今、「新東亞」は呉益済氏が知られているように自ら「越北(入北)」したのではなく、北朝鮮の工作組織によって誘引、拉致されたという証言を入手した。証言の当事者である張哲賢(チャン・チョルヒョン)氏は、2004年ソウルに来た前朝鮮労働党統一戦線部の要員で、現在安保関連の国策研究機関に在職している。張氏は、呉益済氏を拉致するための北の工作機関ら計画樹立及び実行過程を直接見ていたと話している。1997年3月、金正日国防委員長の特別指示で立案された拉致計画が、統戦部、35号室、作戦部などの共同作戦で行われたということだ。
このような張氏の証言内容を、「新東亞」は多角度から検証し、その結果相当の部分が信頼できるという結論を出した。まず、張氏が説明する呉益済氏の北朝鮮内の家族関係などが、以前から呉氏がソウルの身近な知人に話した内容と正確に一致することが確認でき、今までは一般には公開されなかった呉氏の「入北」経路なども、張氏の説明と関係当局が把握していた内容が一致した。証言に登場する北側人士らの当時の職役も当局の資料と一致した。
北朝鮮の官営媒体らは平壤到着以降、呉益済氏が祖国平和統一委員会の副委員長と朝鮮天道教会の中央指導委員会顧問を兼任しており、2003年には最高人民会議の第11期代議員に当選されたと報道したことがある。しかし、呉氏の平壌到着以降、北朝鮮当局の同行・監視無しで彼と会った南側人士は見つからず、呉氏は、南・北天道教の交流行事の時も、遠くから見守る程度で、南側人士との接触を制限されたと確認された。張哲賢氏が書いた証言の全文を掲載する。読者には慣れない北朝鮮式の表現は一部修正したが、話の流れや構成、文書の内容は可能な限り原文をそのまま載せた。(編集者)
工作員が書いた偽物の手紙で誘引
私は北朝鮮統一戦線事業部(韓国では統戦部、または統一戦線部というが、固有名称は統一戦線事業部が正しい)で勤務中、2004年金浦空港を通じ入国した脱北者だ。そして私は今日ソウルに来て4年ぶりに私がその過程の一部に関与し、全過程を見た「呉益済氏の拉致事件」を世の中に公開するためにこの文を書く。
この事実を公開するのに4年の時間がかかったのは、今まで国策研究機関で勤務する特殊な身分だったため盧武鉉)政府の対北政策に反するいかなる証言も公開的にやれないように統制されていたからであった。そのような状況の下でも、北朝鮮の実状を知らせなければならないという使命感から、北朝鮮で起きた大型事件を、匿名の手記の形で「新東亞」などに寄稿したことがあり、外国言論との匿名のインタービューーを通じて北朝鮮政権の権力構造や実状に関し証言した。その過程で私は盧武鉉政府の間、公式的な不利益を受けたこともある。
そうしながらも、私が韓国では自ら入北したと知られている呉益済氏が、実は拉致されたという事実をあえて公表しなかったのは、この事件の性格が、匿名で公開する場合、事実の可否を検証するのが容易でないだろうという判断のためだった。この事件に関する私の証言の信頼性を証明する次元で、必ず実名で証言できるその日を待ってきたのだ。
韓国の大勢の人々、特に一部の北朝鮮専門家まで、北の統戦部を南韓の統一部と比較したりする。過去の統一部と違い、現在の統一部は南北間の対話と交流を専担する公式チャンネルとして位置付けられた状況だ。だが、私が務めていた北の統戦部は、「統一外交」を前面に掲げ、そのシステムを徹頭徹尾赤化統一の次元で逆利用する二重的な機能の部署だ。もっと的確に言うと、対話や交流も対南工作の延長線の上で推進することを原則とする対南工作部署だ。
とくに、統戦部は、北朝鮮では唯一に体系的かつ総合的な巨大な南韓研究の専門組織と技術的な心理戦部署などを持っており、これに基づいて対話と協商を企画し主導する「赤化政策の頭脳部署」でもある。また南韓内の親北・左翼組織を管理しており、そのような基盤を通じて南韓に直接影響力を行使もする。実際に南韓に工作員を浸透させる方式に頼る35号室や対外連絡部が出来ないことを、統戦部は南韓内の親北左翼らを動員して時には攻撃的に遂行もする。
北朝鮮は独裁国家だから、対内的に強度高い統制を敷き、対外的には一体感を誇示できるが、南韓は違う。南韓政府は、野党や市民団体、言論と世論に常に露出されており評価される。統戦部はこの点を巧みに利用する。私が、呉益済拉致事件を公開する理由も、統一外交を名分に南北関係の前面に出て露骨的に、あるいは陰性的な方法で、赤化の目的を実行する統戦部の実態を正確に知らせるためだ。
真夜中の緊急会同
黃長燁(ファン・ジャンヨプ)前労働党秘書が脱北した1997年は、北朝鮮の全域あっちこっちで数多くの餓死者が発生したいわゆる「苦難の行軍」の時期だった。当時、人民たちは死んだ金一成の政治と比較し、金正日政権に対して露骨に不満を表し始めた。北朝鮮政権は、数百万の餓死の原因を、「米帝国主義の(対北)経済圧殺政策」と「自然災害」のせいにしたが、北朝鮮式で表現すれば、あまり「教養価値」がなかった。
沸騰する民心を統制するため北朝鮮政権は「先軍政治」を大々的に宣伝し人民武力部、保衛司令部を前に出して軍事を強調した暴圧政治を加速化し、粛清の悪循環が絶えなかった。黃長燁秘書の越南(脱北)が伝えられたのはまさにこの頃である。これは北朝鮮に、原子爆弾を落としたほどの大きな衝撃を与えた。黃長燁秘書の脱北は、最初は人々の口を通じて噂として広まり、国家保衛部は流言飛語を広める者を探し出すと言い、この事件を隠蔽しようと試みた。この時までも黃長燁秘書がまだ韓国に入国せずフィリピンに滞在していたため、金正日の指示通り再び捕まった連れて来るか、現場で刺殺すれば、事件を最小化できるという打算からであった。
黃長燁秘書にテロを加えるために国家保衛部と人民武力部、保衛司令部はもちろん、35号室、対内連絡部、統一戦線事業部、作戦部のような対南工作部署など、さらには海外外交公館まで総動員されたが、現場からの報告は「不可能だ」ということだった。
仕方なくテロリストらと関連組織などに撤収命令を下した金正日は、その日の夜党の秘書たちと各部の部長及び第一部部長らとの緊急会同を開くように指示した。黃長燁秘書の脱北を知っていた高位幹部らは緊張した顔で木蘭館に集まった。その場に出席した人々から直接聞いた話をそのまま伝えると、高齢の高位幹部たちは死色になった顔で震えていた。長い間黃長燁秘書と一緒に党事業をやってきたため不安感は一層大きかっただろう。
木蘭館にきた金正日はしばらくの間、沈黙して座っていたそうだ。不安な雰囲気がもっと加重されたことは問わずして知ることだ。だが、金正日が吐き出した言葉は意外だった。
「私が今日ここに来るまで首領様の肖像画と向かい合って座っていた(金正日は内部行事の祭には絶対に誰にも尊敬語は使わない)。首領様に聞いてみたの!その黃長燁が間違いないなのかと。私たちと一緒に一生を共にしたその黃長燁なのかと。私が今日のように辛くて大変な時はなかった。」
金正日がため息をした姿を見た幹部の一人が泣き始めた。そんな時は一緒に泣いてあげるのが忠誠であるはずで、すべての幹部がハンカチを取り出した。雰囲気が高まると、金正日は叫び出した。
「ここにまた誰か黃長燁のような奴がいる?私を裏切り行きたいなら行け、行け!」
そのとき、対南担当秘書である金容淳(キム・ヨンスン)が立ち上がって涙で叫んだ。
「将軍様、私たちは将軍様と運命を共にします。私たちは死んでも将軍様のひざをまくらにして死にます」
すると、すべての幹部が口を揃えて「将軍様、私たちを信じてください」と泣き叫んだそうだ。
三人の拉致候補
数日後、私が働いていた統一戦線事業部など関係部署に、(黄の脱北に)関連した論説を書くように指示が下された。まもなく「労働新聞」は「革命の裏切り者」、「行きたければ行け、われわれは社会主義を守る」のような以前になかった表現を使い始めた。このように黃長燁秘書の脱北は、数十年間北朝鮮を支配してきた社会主義革命の一貫主義の情緒を、「裏切りと忠誠」という二重構造として浮き彫りにたせた。それだけではなく、「労働新聞」をはじめ北朝鮮のすべての宣伝物は、将軍様のひざを枕にして死ぬという「自決忠誠」を訴えた。これに従い、軍は「自爆精神」、民は「自決忠誠」、さらには学生や子供たちは「銃爆弾や弾丸の誓い」をするように、全社会的な運動を行うようになった。
黃長燁秘書の韓国行きがほぼ確実視され、なおテロは不可能だという現地報告を受けた1997年3月の中旬頃、金正日は対外連絡部長の姜寛周(カン・グァンジュ)、作戦部長の呉克烈(オ・グクリョル)、統一戦線事業部長の林東玉(イム・ドンオク)、35号室部長(室長)の権煕京(クォン・ヒギョン)を呼び、「黃長燁対応工作」の次元で、彼ほどの南韓人士を越北させるか拉致せよと指示した。金正日は「部署の特殊性などは考慮せず、相互連帯して今度の工作を必ず成功させろ」と言った。
この場で、金正日は中国の指導部に対しても原色的な表現を使い、激怒をしばらく爆発させたそうだ。「35号室」に、対中諜報事業を行うことに対する指示もこのとき下されたという。これによって大同江区域の衣岩招待所(前平壤市寺洞区域国際関係大学の後ろに位置する招待所地域で、ここには作戦部長、対外連絡部長、統戦部長の招待所が密集している)で、日夜に対南工作部署長らの連合会議が行われた。
一応、越北、または拉致する人物の選定は、南韓の事情に詳しく人物リストがよく整理されている統戦部が担当することになった。1課と2課に分類された統戦部の交流課に、直ちにこの課業が下された。1課は、親北及び左翼団体を管理する課で、ここには「全敎組」、「民主労総」、「汎民連」、「統一連帯」の担当組織がある(以前「韓総連」を担当した組織は、2001年大学生らを過去のように理念化し難いという判断で閉鎖された)。1課は、南韓内の団体を直接管理する課で、いかなる部署よりも南韓事情に詳しくよく連繋されていた。
2課は、宗教担当課だ。北朝鮮のキリスト教、仏教、天道教、社会民主党として偽装された1~5局で構成されたこの課は、いわゆる南韓との宗教交流を掲げている。2課も、このようなチャンネルを通じて南韓に対してる相当なレベルで把握しており、内的関係を構築している。反面、平壤第2百貨店の隣に、看板もない建物にある「南朝鮮問題研究所」も人物の選定に加わった。統戦部傘下であるこの研究所は、南韓の政治、経済、軍事、社会文化の研究や分析、予測・対策報告書を生産する研究所であり、人物分析及び管理は基本だ。
統戦部は、拉致疑惑を避けながら自発的な越北を誘導するためには、越南者出身であるか、最小限北朝鮮に縁故者がいる人を対象にしなければならないという結論を出した。人物選定の範囲が、1950-60年代の越南者などに絞られると、性向分析に入った。左翼性向の人士を越北させる場合、南韓政局に与える波及効果は大きくなれない。反面、右翼性向の人士は攻略し難い、と判断した統戦部は、宗教界が時間的にも可能性から見ても最も適合すると判断した。一方、以前北朝鮮と連携があった人々、あるいは統戦部が北朝鮮内の縁故者を通じて工作次元で接近した人物リストからも選別作業を進めた。
その結果、呉益済と他の二人(彼らは実名を明かさないことにする)にすると最終結論に至った。統戦部が呉益済を指目した根本的な理由は、柳美瑛(リュ・ミヨン、柳美映)天道教青友党委員長が1993年10月、ソウルー平壤交換訪問及び「東学革命100周年記念行事」の共同主催協議のため中国北京を訪問した時、呉益済に北朝鮮の平南道成川に住んでいる本妻と娘の安否を伝えたことがあったからである。
そもそも、このような工作は、「在北平和統一促進協議会」(現在平壤大劇場の後、「祖平統」建物の中に、平壤駐在「韓国民族民主前線代表部」と一緒にいる)の主な業務だった。「在北平和統一促進協議会」は、越北者で構成され、南韓にいる縁故者に手紙を発送したり、放送心理戦や直接接触などを通じて人物を包摂する仕事を担当している。だが、交流という公式チャンネルを通じても人物の包摂を推進してきたので、統戦部は柳美瑛に呉益済の心理情緒を打診する次元で、成川に住む本妻と娘の消息を知らせるようにしたのだ。
当時、柳美映からの伝言を受けた呉益済は、非常に感性的な反応を見せ、統戦部はこの点を重視し、彼を工作次元の包摂対象の名簿にすでに載せた状態だった。呉益済の他二人を越北させるか拉致するという戦術対策案が金正日に報告された。金正日は三人に分散させず、一人を選択し、間違いなく成功させろと指示し、最も重要なことは黃長燁の脱北衝撃を最小化するため時間を最大限短縮することだと言った。
「どうして事も有ろうにとうもろこし畑で・・・」
工作対象を一人に絞れ、という金正日の指示で、35号室と対外連絡部、統戦部は3人を置いてお互いに意見が食い違った。35号室と対外連絡部は、呉益済ではなく他の人を固執した。現職であり海外への誘引も可能だということだった。反面、呉益済の場合すでに公式の肩書きがない状況であるので波及効果が落ち、しかも金大中当時新政治国民会議総裁と連携している人であったため、拉北した後その被害が大統領選挙を控えている金大中総裁に及ぶかも知れないということだった。しかし、統一戦線事業部の第1副部長の林東玉は、時間を短縮することが最優先だ、と言った金正日の指示に従うためには最も適合な対象は呉益済だと固執し、結局彼の意見が通った。
先決条件は、まず呉益済を海外に誘引することだった。この部分は統戦部が担当することにとし、「越北」偽装まで統戦部が担当すると結論がなされた。拉致の実行は、35号室、対外連絡部、作戦部が担当することにした。林東玉は、直ちに祖国平和統一書記局の安京浩(安炳洙)を実務責任者に任命した。一方、35号室と対外連絡部は、アメリカと日本、中国、ソウルの現地にある工作線(工作員)をどのような方法で呉益済に集中させるか、拉致疑惑をかわす偽装形態とルートの確保のための戦術は何かについて協議に突入した。
具体的な戦術案の報告を受けた金正日は、その(報告の)初のページに、「今回の機会に党の対南工作部署長たちの能力を検証する」と親筆でサインした。その圧迫感がいかに重かったのか、呉益済拉致工作期間中、対南工作の部署長たちは退勤せず、衣岩招待所で寝泊りしながら工作を指揮した。「祖国平和統一書記局」局長の安京浩(アン・ギョンホ、安柄洙)は、「祖平統」と各連絡所の優秀人力で実務陣を構成し、金正日に必ず今度の作戦を成功させるという決議文まで作成し、他の部署との差別性を強調した。
呉益済を誘引するための方法(手段)として、安京浩は写真と手紙を用意させた。このため「祖国平和統一委員会」の職員たちを平南道の成川に行かせ、呉益済の本妻と娘、老母の写真を撮って来るようにした。これにはエピソードも一つある。呉益済の本妻と娘は、「越南者」の縁故者であるため、北朝鮮での最悪の暮らしをしていた。写真を撮ろうとしてもまともな服もないぐらいだった。このため祖平統要員らは、「56連絡所」から日本の古着を準備して行った。「56連絡所」の上級部署は「統戦部の56課」であるが、「56課」は在日「朝総連」担当課であり、朝総連と一緒に朝総連の基地を利用した外貨稼ぎの会社も持っている。当時北朝鮮では中古商品の輸入を「統戦部56課」がほぼ独占していた。
「祖平統」職員たちは、日本にいる「統戦部」傘下の「カンナムム貿易会社」から持ってきた古着を持って成川へ向かった。古着の準備までは完璧だったが写真の背景が問題だった。祖平統要員らが持ってきた写真に対して林東玉は後日私に私的な席でこのように説明した。
「写真を撮るところがなくて、事も有ろうに田舎臭いとうもろこし畑を背景にして撮って来たのだ。私がその問題を指摘し怒った。1分1秒が惜しい時に、写真を撮り直さなければならなかった」
北朝鮮は道路がひどくて一度出張に出ることが容易でなかった。「祖平統」職員たちは林東玉が出してくれた車に乗って再び成川に行って、白く塗ったアパートの壁を背景にして写真を撮って戻ってきた。持って行った古着も回収して持って戻って来たぐらい「越南者」家族に対して当時の職員たちは凄い敵対的な心理を持っていた。
写真が完成すると、安京浩は平壤市中区域リョンファ洞にある「101連絡所」に呉益済の妻と娘の名前で手紙を書くように指示した。「101連絡所」は、「対南文化連絡所」として、南韓の作家や詩人の名義で新聞、映像、小説、詩集などを偽装制作して1970年代から「民主化運動」陣営や南韓の大学街へ浸透させることを主な業務としていた。
呉益済へ送る手紙は、政治・理念的な勧誘より感性的な誘導が優先であるという判断が下され、「101連絡所」の5局19部(詩・文学部署)のパク・チョルが作成を担当した。
呉益済の本妻の名義の手紙の主な内容は、「たった一回も再婚せず、統一のその日を待って老母と一緒に夫を待ち続けてきたある女性の長い何十年の歳月」に関する話だった。娘の名で書かれた手紙は、「今まで母が未亡人の悲しみと涙を噛みながら、おばあさんの世話をしながら一人で苦労してきた話、と父の顔も知らずに成長してきた娘の悲劇的な心情」を吐いた。特に、呉益済の本妻の手紙に書かれた老母の話には「死ぬ前一度でも息子の顔が見たい」という切実さが満ち溢れていた。
このような何度かの検証や繰り返しを経て統戦部が手紙を完成した。だが、このような手紙の内容は多くの部分が事実と異なった。まず、呉益済氏の本妻はそれまで二度結婚し、娘もそのため姓を二度も変えなければならなかった。また「越南者」の家族だという理由で彼らが受けた虐待は手紙に一文字も反映されなかった。
1997年5月頃、統戦部の手紙は、「対外連絡部」の工作線を経て現地(南韓内)の「35号室」の工作線を通じて呉益済氏に渡された。呉益済氏が後日、北朝鮮にきて告白したところによると、彼はその手紙と写真を見て、トイレの便器の上に座って1時間も泣いたそうだ。
列車は国境を越えて
「35号室」の工作線は、以降も呉益済氏に「妻と娘を中国に行かせるから一度会って見なさい」と誘惑した。呉益済氏が代価のない誠意に対する疑問を提起する場合は、北朝鮮の天道教青友党委員長の柳美映との親密な関係を説明するように予め指示されたぐらいに戦術案は緻密だった。いよいよ呉益済氏が本妻と娘に会いたいというメッセージが伝えられると、安京浩は実務本部を直ちに中国に移した。拉致の疑惑をかわし自発的「越北」に偽装するためには彼が中国まで来る過程が問題だった。
対外連絡部は、自らの工作線(工作員)を露出されることがあっても、必ず呉益済の工作を成功させなければならないという結論に至った。呉益済と中国の北京まで同行した、アメリカLAにある「チョンクム観光旅行社」の代表金充子(キム・チュンジャ、55)氏は、それまで「対外連絡部」が管理してきたアメリカ在住の工作員だった。呉益済氏は、単純に本妻と娘に会えるという夢に胸を膨らんでいて、金充子の助言に忠実に従った。実際に、彼はまったく「越北」の準備もせず、若干のドルと、いつも持っていたスケジュール・メモ、電話番号が書かれた手帳のみを持って出た。後日、彼の手帳は捜査過程で「統戦部」の主要資産として押収され、呉益済氏はそこで大きく傷付けられた。
「統戦部」の呉益済拉致工作チームは、拉致を自発的「越北」に偽装するため、北京に来るまでの過程は勿論、呉益済氏の電話を利用して不必要な通話を何回もソウルと交わすようにさせるなど、緻密さをみせた。本妻と娘との隠密な対面だとだけ信じ、金充子の要求通り行動した呉益済氏は、北京に着いて一時的に心理的な葛藤を経た。そこで自分を待っているはずの本妻と娘の姿が見られなかったからだった。工作員たちは、北朝鮮の保衛部が「越南者」の家族だという理由で国外旅行を統制したので、北京までは来れず中国・北朝鮮の国境線付近で妻と娘が待っていると説明した。これに対し、当時中国にいた「祖平統」書記局長の安京浩が、秘密裏に呉益済氏を接触し、これを確言した。
北朝鮮当局の重要職役の人事が約束するという話に、どうせ始めた道だから往ってみると心を決めた呉益済氏は、「統戦部」から促された通り、偽装変身までしてついて行った。丹東に着いた彼は、母と娘がパスポートの問題で列車から降りられないという保衛部員の話だけを信じて迷った末、北朝鮮の列車に乗った。
呉益済氏が、列車の中で本妻と娘に会っているその感激的な瞬間に列車はすでにゆっくり国境を越えていた。北朝鮮の土地を走るときも気づいてなかった呉益済氏は、窓の外の見知らぬ風景に驚き、この列車が今どこへ向かっているのかと叫んだ。安京浩は、「平壤に向かっており、呉益済先生は今から民族宗教の交流や南北統一事業において責任のある役割を担当して頂く」と説明した。その言葉に呉益済氏は激しく抗議したという。
安京浩は、すでに用意した「呉益済越北」の関連する朝鮮中央通信社の報道資料を見せ、呉益済氏は列車の中に外信記者はいないかと叫びながら探した。母と娘は、父に縋って二度と別れないように、このまま帰れば私たちは生き残れないと泣きながら哀願した。安京浩は、「将軍様が必ず先生を御伴して来るように信頼を下さった」といい、総理の待遇をやるとか、南・北宗教交流の第一線で活躍できるようにすると繰り返して説得した。「呉益済先生が再びソウルへ戻るのを希望される場合は、いつでも帰られるようにします」という約束もした。
いつでも帰られるという約束に、呉益済氏は一時間の考える余裕を要求した。その時間に母娘は彼に縋って涙で対話を交わした。呉益済氏は、半世紀を一人で生きてきたという本妻と娘の純粋な願いに勝てず、遂に「統戦部」が作った脚本通り、平壤駅で短い「越北声明書」を発表することになる。工作が遂に成功する瞬間だった。
「総理級待遇」の実状
平壤駅で「越北」声明を発表した後、呉益済氏はすぐに「紋繍招待所」に移された。平壤市の大同江区域青流2洞の天道教青友党の後ろに位置した紋繍(ムンス)招待所は、越北者たちを収容して取り調べる目的で「統戦部」が管理する建物だ。当初は1989年の第13次世界青年学生祝典に参加する(韓国の)「全大協」代表たちと南韓からの人々の宿舎として使うために建てられた建物だが、「越北者」の招待所として使用したいという統戦部の提議書に金正日がサインしてから、「越北者招待所」に変更された。
その紋繍招待所の最後の客がまさに呉益済氏だった。呉益済以降は越北者たちがいなかったため紋繍招待所は「朝総連」を担当する「56課」の専用の建物になった。南韓のエイス・ベットの家具などえ飾られ、北朝鮮ではまったく見られない南韓のビールや焼酎も提供されたりする。
呉益済氏は、この招待所を管理する武装警備に囲まれて1年間取り調べを受けた。調査する間「総理級待遇をする」という約束を守るという名目で、毎月呉益済氏に「外貨に換わる金」で7000ウォンが支給された。「外貨に換わる金」とは、ドルの代わりに使える交換貨幣だ。当時の公式為替レートは2対1で、7000ウォンだとおよそ3500ドルほどだが、無責任な発行により実際の「為替価値」は7000対100まで落ちていた。結局100ドルが彼がもらった総理級月給の全てだった。
呉益済氏は、「北朝鮮が言っていた南北宗教交流や南北統一への寄与というのがこのような犯罪者の扱いなのか」と最初の調査から強力に抗議した。しかし、人権のない北朝鮮での抗議は許容できないもので、調査官は寝る時間まで彼を呼び出すなど露骨的にいじめた。結局、呉益済氏は約束を守ることを強力に求め、ソウルへ帰す様にと断食に入った。本妻と娘が作った食べ物も彼の決心を取り戻すには力不足だった。
ある日、「統戦部」の第1副部長の林東玉が安京浩と一緒に「呉益済先生の怒りのもつれを解してあげなさい」と言い、金正日が送った飲食だと木蘭館で作った料理を持ってきた。だが、彼が金正日が送った食べ物まで拒否するや、その瞬間から呉益済氏は、死刑囚のような扱いをされた。武装人力が寝室にまで立って監視し、本妻や娘との面会も禁止された。朝の散歩も許されず、二日間誰も訪ねてくる人がなく、その静寂がもっと耐えられなかったのか、呉益済氏は遂に観光を申請した。北朝鮮のテレビに映った彼の顔はまさにこの時撮影されたものなのだ。
拘束されたのと同様の
観光が終わった後、同行した金容淳秘書は、「観光用の乗用車は将軍様が直接配慮された乗用車で、スケジュールや食べ物まですべて将軍様が選んでくださったもの」だと言った。呉益済氏は、金剛山、妙香山などの名所や指定観光コースを順次に廻った。それから、北朝鮮当局はベンツ500型の車や個人邸宅まで金正日が下賜するなど演出劇を行った。だが、呉益済氏は平壤市を観光したり本を読み人々を面談する過程で社会主義の不合理性をさらにはっきりと認識したようだ。外国人が多く訪ねるという名所を観光中、ある案内員に「外貨に換わる金」1万ウォンを渡し、自分は拉致されたと外国人に知らせてほしい頼んだりもした。勿論、その事実知らせられることなく、自ら申告した案内員まで姿が消えた。
こんなこともあった。TVを通じて呉益済氏の観光のニュースを見ていた金正日が、金容淳を呼び「呉益済の表情がどうしてああなの?あの顔を見て誰が自らの越北だと思うだろうか?明日からTVに出すな!」と指示した。翌日から呉益済氏は招待所の外へ出られなくなった。それから、呉益済氏は思想攻勢を受けるようになり、今までも拘束されたのと同様の徹底した監視と統制の中で自由を奪われたまま生きている。
北朝鮮に「自発的に越北」したという人々の中で、「越北声明書」を自ら読まなかった人はいない。故・申相玉監督がそうだったし、彼の妻の崔銀姫氏も同じだった。「呉益済越北事件」は、実は黃長燁脱北に対応する工作の次元で、金正日の指示によって「統戦部」が恣行したもっとも近い過去の南韓人士の拉致劇だ。
「呉益済工作」で、安京浩は労力勲章と国家勲章1級、他の工作員ら2級勲章をもらった。呉益済の本妻名義の手紙を書く任務を遂行した「101連絡所」のパク・チョルは、5局19部長から5局長に昇進した。だが、パク・チョルは、以降金容淳秘書の腹心になり、林東玉副部長攻撃に先頭し立ち、2001年の党組織指導部の指導検閲を受け粛清された。現在パク・チョルの代わりに作戦部長の婿チャン・ヘミョンが5局長になっている。彼は2006年、朝鮮作家同盟中央委員会の副委員長という偽装職役で南北作家会談の北朝鮮側の代表として参加したこともある。
DJ(金大中)はどんな話をするだろうか
いわゆる「呉益済越北」が知られた後、南韓社会が大きな衝撃に包まれたという消息が平壤まで届いた。黃長燁秘書の脱北ほどの波及力はなかったようだが、統戦部は、呉益済の「後暴風」を誇張して金正日に報告した。しかし、黃秘書の脱北による金正日の激昂は解消できなかった。金正日は「金大中ならいざ知らず、呉益済は黃長燁ほどの人物でない」と相変わらず憤怒した。そう言って「呉益済の拉致にとどまらずに南韓政局を継続的に揺さ振るように!」と指示した。黃長燁の「脱北」のショック以上に、呉益済氏の「越北」を誇示できる攻撃的な対南心理戦を展開せよ、という指示だった。
呉益済氏の名義の手紙をソウルへ発送する工作は、そのようにして行われた。韓国では、大統領選挙を控えていた金大中総裁(当時)になぜ呉益済氏が手紙を公開的に発送したかについて未だ疑問が多いようだ。李会昌総裁が政権を取ったら北朝鮮にもっと不利になるはずなのに、北朝鮮は金大中総裁を困らせた。
だが、当時「統戦部」の「手紙」発送は、大統領選挙用ではなく、金正日の憤怒を和らげるためのことだった。北朝鮮はすべての政策の上に、金正日の権威や決心が置かされるべき独裁国家だ。北朝鮮がしばしば戦略的混同を招くのは、大義よりは金正日の私見に忠実してこそ生存できる権力構造の属性のためで、それがまさに北朝鮮の社会秩序と体系の順理であるからだ。
当時、呉益済氏の名義の手紙を発送した目的は、大統領選挙ではなく、黃長燁秘書の脱北に対応する工作の延長線の上でのことであり、金大中総裁に手紙を送ることで、呉益済氏の格を人為的に誇示するためだった。当時の雰囲気を回想すると、もし、1998年金大中氏が大統領になれなかったら、北朝鮮が彼に対する「越北誘引工作」を実行した可能性もあったと思われる。
北朝鮮は体制の広報や金正日の満足のため多くの南側の人々や日本人を拉致してきて、今もそのような国家的犯罪を隠蔽するため汲々としている。大統領在任中、金正日政権に対して柔和策で一貫し、頂上会談までやった金大中氏は、自分と親しくしていた人士がその金正日政権によって拉致され現在も監禁と同様の状態に置かれている事実の前で、どのような話をするのかいつも知りたい。