純子が行方をくらましたのは、その三日後である。髪を切られてから、純子は一歩も外に出ず、食事に二階から降りてくるほかは、ずっと自分の部屋に引きこもっていた。その純子が、祥一が高校時代の友達の家に行き、次妹と次弟が外に遊びに出かけ、母が買物に出かけている留守に、姿を消した。いくら呼んでも純子が夕飯に降りてこないので、祥一が純子の部屋に行ってみると、灯が消えていて、純子の姿は見えなかった。
部屋がきちんと整理されており、祥一にはピンとくるものがあった。箪笥の抽出しを開けてみると、果たしてあらかたの下着類と、さしあたって必要なスカートやブラウスなどの衣類がなくなっていた。洋服箪笥も開けてみると、いつも純子が着ていたコートがなく、そこに蔵(しま)われていたはずのスーツケースも見えなかった。
純子が出奔したのは明らかだった。母を驚かすのを少しでも遅らせたい気持もあって、祥一はしばらく純子のベッドの縁(ふち)に坐ったままでいた。
純子が可哀相でならなかった。女にとって、髪は命にも等しいものであろう。その髪を無残に断ち切られた純子の胸中が思いやられた。<家出したい気持になるのもあたり前だよなあ>
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窓の桃色のカーテンを見つめながら、祥一は胸に咳(つふや)いた。祥一自身、諍(いさかい)の絶えないこの暗い家から脱出するために、東京の大学に入ったようなものであった。
たまに帰省するたびに、心に傷を受ける、祥一は暗い気持で考えた。それも、父のためにだ。こんとも、帰省した早々に、あんな場面に遭遇した。ただ、こんどの諍の相手は、母ではなく、妹の純子だったことが祥一には意外だった。父の諍の相手になるような大人にいつのまにか純子はなっていたわけだ。
父の仕打ちに対する特別な怒りは彼はおぼえなかった。怒り出すと無残な仕打ちを相手に加えるのが父のいつもの流儀だからだ。先夜の場面で彼が恐れたのは、母に対してしょっちゅうそうであるように、殴る蹴るの暴行を純子に加えはしないかということだった。一回だけ頬を打たれ、髪を切られただけであの晩は済んだ。髪が女にとって命にも等しいものであるにせよ、髪を切るという、肉体的苦痛を伴わない仕打ちであの晩は済んだ。そのことに彼はほっとするものさえ感じたほどだが、しかし、純子にしてみれば、髪を切られるということは、肉体的暴行を加えられる以上にショノクだったかも知れない。
どうして父はああなんだろう。家族に対して、特に母に対して乱暴な仕打ちを繰り返すのだろう。仕事がたいへんなために、心が荒(すさ)むのだろうか。しかし、仕事がたいへんなのは誰にとっても同しではなかろうか。家に帰ってきて、ちょっとしたことで怒りを破裂させる父が彼はいまさらに悲しかった。
それに、日本人との結婚をあのように強硬に反対する父も、祥一には異様に思えた。子供に日本人と結婚して貰いたくないなら、そのような気持を起こさせぬよう、それなりに幼時から民族教育を施すべきだ。父はそういう教育を何もしなかった。反日感情はよく口にした。しかし、それだけで、朝鮮人としての希望的な民族教育といったものは、何ひとつなかった。
祥一も含め、子供たちは皆日本で生まれ育ち、森本という日本名で日本の教育を受けてきた。十二歳になってから大正の末に朝鮮から日本に渡ってきた父とは、あらゆる意味て違った境遇の中で育ってきている。父と思想なり考え方なりが異なるのは当然ではないだろうか。その辺に対する理解が、父にはまったくといっていいほどにない。
第3189号 1984年6月28日(木曜日) 6面掲載