『朝鮮労働党略史』をただす 「女王蜂」史観一掃のために<6>

全体の構成(下) 47年から現在まで
日付: 2008年08月31日 00時00分

大粛清の軌跡を浮きぼり
延安系追放で神格化基盤固める

南労党系排除で本格化

「8・15解放」から3年目の48年3月、「北朝鮮労働党」第2回大会が開かれる。この大会報告を通じて金日成はかつて「朝鮮共産党北朝鮮分局」を設置することに反対したグループを「宗派主義者」と処断したことを明らかにする。この時期の党内闘争を金日成中心の観点からまとめたのが第6章である。
 第6章は「北半部の社会主義革命段階への移行。人民経済の復興発展と祖国の自主的平和統一のための党の闘争。党の領導的機能の拡大強化」(1947・2~1950・6)と題されている。
 この党内闘争の一部は第3節の一つ、「北朝鮮労働党第2回大会」にも言及されている。また南北の政党、社会団体代表者連席会議が平壌で開かれたり、「北」が創建されたのも、この時期である。
 第7章は「祖国解放戦争勝利のための党の闘争。党隊列の拡大と党の組織思想強化」(1950・6~1953・7)となっている。
 これは6・25動乱の時期である。この時期の最大の特徴は“敗戦”の責任をめぐって、党内部に激しい論争が起こり、金日成がその責任を朴憲永らの南労党系(南朝鮮労働党系)にかぶせて粛清したことである。
 この粛清に関しては第3節「積極的な陣地防衛戦。党粗織事業での左傾的傾向を克服するための闘争。偉大なる首領金日成同志の歴史的な2月演説」および、第4節の「党中央委員会第5次全員会議と党員たちの党勢報告。朴憲永徒党の摘発・粛清」が当てられている。
 第8章も「北」労働党および金日成の党ともいうべき現在の.状況をもたらすにいたる過程を考察する上で欠かけせないところといえよう。この章は、そのタイトルからしてきわめて“戦闘的”である。「戦後人民経済復旧発展と社会主義基礎建設のための党の闘争。歴史的に流れてきた宗派の粉砕」(1953・7~1960)。

経済建設めぐり対立も

 第8章で重要なのは次の4つの節である。
 第3節「党員と動労者の中での階級教養の強化。偉大なる金日成同志の古典的労働≪思想での教条主義と形式主義を退治し、主体を確立することについて≫。主体を打ち立てるための闘争での新しい転換」
 第4四節「朝鮮労働党第3回大会」
 第5節「党中央委員会1956年8月全員会議と崔昌益徒党の暴露、粉砕。朝鮮労働党代表者会議。反革命に対する攻勢の強化」
 第6節「党中央委員会1956年12月全員会議。偉大なる首領金日成同志におかれて打ち出された社会主義建設において革命的大高潮をひきおこすことに対する方針。千里馬運動の開始」
 1956年はフルシチョフによってスターリン批判が行われた年として知られるが、これを契機に「北」にも民主化の波がおし寄せてきた。金日成個人崇拝に批判的だった延安系、ソ連系の一部指導者らがこの波に影響され、金日成に反旗を掲げる。延安系らは個人崇拝に反対しただけではなく、軽工業と重工業併進という名分のもとに進める金日成の重工業優先政策をも批判する。6・25動乱後の民衆生活の疲弊をはばかってのごとである。
 このように政治的、経済的、政策的な対立を背景に惹起された争いであったが、“中ソの介入”で決定的な対決は回避され、第3回党大会で一応の“妥協”が成立した、といわれた。
 

「唯一体系」で抑圧強化
 
 だが、その直後に金日成らが巻き返しに出て、延安系の金科奉、崔昌益らは「反革命徒党」として覚から追放された。56年の「北」労働党8月全員会議においてである。58年3月に開かれた「北」労働党第1回代表者会議で金日成は、かれらの「反革命」性をさらに徹底的にあばいた。この時期に会議や大会がひんぱんに開かれたのは、延安系およびソ運系の一部を党から追放するためであった。
金日成はこうして国内系、南労党系、延安系、ソ連系指導者を次々に葬りさり、名実ともに党権力を固めていった。偶人崇拝も誰はばかることなくできるようになり、それはやがて偶像化・神格化へと発展していく。経済面でも反対派はいなくなり、金日成は自分の構想どおり“重工業優先”政策を進め、ソ連のスタハノフ運動にならって千里馬運動を展開する。
 これ以来、金日成は様々な事業方法や“独創的思想”をつくっていくことになる。青山里精神・青山里方法、大安の事業体系といったものが喧伝されはじめる。このような時期をまとめたのが第9章である。
 第9章は「社会主義の全面的建設への移行。国の工業化を実現し、全社会の革命化、労働階級化を促進させるための党の闘争。唯一主体の思想体系に基礎した党の統一団結の輝かしい実現」(1961~1970)。
 第4回党大会は、それまでの党内反金日成勢力を完全に粛清した後にはじめて開いた党大会である。これ以後金日成偶像化・神格化に拍車が加えられる。
「全社会の革命化」というスローガンとともに、この時期から「唯一主体の思想体系」なる語句が公式に登場する。経済建設も急進的に展開され、前述のような青山里方法とともに金日成が“創造”したとされる「農業措導体系」という言葉もこの頃から使われる。が、66年10月には「北」労働党第2回代表者会議が開かれ、経済計画の3年間延長を公表するなど、経済の破綻が露呈される。

神格化の“世界化”企む

 その一方では、対南工作も強化される。南の「革命力量を強化する」という名目の闘争がそれで、「主体思想」を「指導理念」とする「統一革命党」が66年につくられることになる。
 第10章は「思想、技術、文化の3大革命を推進し、全社会の主体思想化を促進し、革命の全国的勝利をくり上げるだめの党の闘争。党事業における新しい転換」(1971~)と題されている。70年11月に「北」労働党第5回大会が開かれ、これ以来金日成神格化は、絶頂期に入る。72年に「社会主義憲法」を採択し、金日成はより権力を集中する。翌73年には思想、技術、文化の「3大革命」を推進するための「3大革命小組」が組織され、金日成の実子金正一がその責任者に任命される世襲化のはじまりである。
 金正一登場とともに「全社会の主体思想化方針」が打ち出され、「北」は金日成および「主体思想」一色に塗りかえられるようになる。その後「社会主義教育に関するテーゼ」が発表され、教育、文化の面も金日成の「唯一思想体系」で完全に固められる。
対南工作もより激しくなり、それと同時に「主体思想」の対外宣伝も強化され、金日成思想が世界を“指導”するものであるかのような誇大宣伝をひろげていくようになるのもこの頃である。
 以上が『略史』の全体の構成である。その流れをみると、金日成神格化は段階を追って異様になっており、金日成が“創始”したとする「主体思想」の“世界化”までも意図するにいたっている。

鄭益友(論説委員)

1980年5月14日 4面掲載


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