登場以前は全て「前座」に
金日成への収れんで無理に無理
『略史』の意図と性格
本稿「起点と時代区分」のところで、新版『略史』と旧版「闘争史』を比較しながら、それぞれの党史の叙述起点と時代区分の相違をいくつかみてきた。が、それでは不十分と思われるので次により具体的な全体の構成をみてゆくことにしよう。そうすることにより『略史』における叙述起点、時代区分の仕方が正しいかどうかが明確になり、またそれを通じて『略史』の意図と性格が明らかになるものと思われるからである。
『略史』は、全文10章と序文とあとがきからなる。
第1章は、既述のように「主体型の共産主義革命家隊伍の形成。革命の指導思想、主体的革命路線の確立」で、その時期は1926年から31年12日までとなっている。
この章は、「略史』の最大の特徴をあらわしている。「主体型共産主義者」、つまり金日成が創始したという「主体思想」なる理念がこの頃から出てきたといっているからだ。26年「主体思想」創始論は、金日成の革命活動と結びつけられる。
『略史』の意図は、この章を構成している次の5つの節を見れば、よりはつきりする。
第1節、わが国における共産主義運動の発生。初期共産主義運動の制限性。
第2節、偉大なる首領金日成同志におかれて打倒帝国主義同盟結成。新世代の共産主義者たちの育成。
第3節、敬愛する首領金日成同志におかれて偉大なる主体思想の創始。主体思想は革命のもっとも正確な指導思想。
第4節、?倫(カリュン)会議。健大なる金日成同志におかれて打ち出された主体的革命路線。党創建準備事業を推進することに対する方針。
第五節、朝鮮革命軍の組織とその軍事・政治的活動。佐傾的冒険主義路線を排撃し革命的組織路線を貫徹するための闘争。
この特徴ある章の第1節は旧版党史『闘争史』の4節からなる第1章(全体29ページで構成)をすっぽり収めてしまっている。『略史』第1章・第1節はわずか10ページ。したがって約3分の1の分量で金日成が登場する蔚から「闘争史』が党史の起点としている1910年までの約16年間のわが民族独立闘争―民族主義的運動、共産主義的運動を含めて―を叙述している。
一切示されない根拠
だから当然のことだが、その叙述は雑である。否定的面を拡大しながらではあったが、『闘争史』でふれていた抗日義兵闘争などは抹殺されてしまっている。3・1独立運動、そして20年代の共産主義運動もとてもふれたといえない程度の分量に縮められ、軽視・無視されている。この時期の運動は金日成の活動開始を飾る前座をつとめさせられているような格好になっており、この章で『略史』は文字どおり金日成ひとり党史への軌道をひいたといってよい。
第2章は「抗日武装闘争を中心に反日民族解放運動の新しい高い段階への発展・共産主義隊列の組織思想的統一のための闘争」(1931・12~1936・2)となっている。
『闘争史』では、ほぼ同じ時期の活動を「マルクス・レーニン主義覚創建のための闘争」とされていたが、「マルクス・レーニン主義」がはずされ、単に「組織的統一のための闘争」とされているのが目につく。第1章が「主体思想」で塗りつぶされているという脈絡からして当然の結果といえよう。
第3章は「抗日武装闘争を拡大し、反日民族統一戦線運動を全国的範囲に発展させるための闘争。党創建準備事業の全面的推進」(1936・2~1940・8)。
この時期の大きな特徴は、第2節の「祖国光復会の創建と統一戦線運動」の展開であるといえよう。が、『略史』は「祖国光復会」を実物以上に見せるための“新資料”なるものを出している。しかし、その資料なるものの根拠は一切示されず、かえって金日成が主導したとされる「祖国光復会」や統一戦線の活動に疑惑を抱かせる役割を果たしている。第3章においても、このように史実の根拠が全くない。
お粗末な“ソ連抜き”
第4章は「祖国光復の大事変を主動的に迎えるための闘争。抗日武装闘争の偉大な勝利」(1940・8~1945・8)。
この章は第1章とともに、『略史』のなかで最も問題の多いところである。1940年代初に金日成が満州からソ連に逃げ込んだことは多くの資料にようて証明されている。それだけに全くないといっていい“根拠”づけのための努力を、『略史』はこの章でしなければならないのである。その努力のあとが手にとるように分かるのがこの章である。参考までに各節をあげておく。
第1節、小哈兩巴嶺会議。偉大なる首領金日成同志におかれて打ち出された祖国光復の大事変を準備し、迎えるための方針。
第2節、広闊な地帯での朝鮮人民革命の小部隊活動。
第3節、朝鮮人民革命軍の政治軍事訓練と隊伍の幹部化。
第4節、全人民的抗争態勢の強化。
第5節、朝鮮人民革命軍の祖国解放のための最後の攻撃作戦と抗日武装闘争の輝かしい勝利。
第6節、栄光ある抗日武装闘争の歴史的意義。
「主体思想」のたて前からして『略史』は、ソ速軍によって「北」が解放されたなどとはいえない。この章の欺瞞性は、この歴史的にあまりにも明白な事実をひっくりかえすことからはじまっている。そのような立場にたてば、とても認めることのできないものであろう。それだけに金日成が満州に最後まで踏みとどまって、大部隊を率いていたことを立証しなければならないのだが、その努力がかえってウソがウソを呼ぶという悪循環をもたらしている。
第5章は「共産党の創建と勤労人民の大衆的党、労働党への発展。反帝反封建民主主義革命課業遂行のための党の闘争」(1945・8~1947・2)。
この章は、第4章と密接な関連を持っている。ソ運軍政の鹿護下における金日成の権力闘争の優位、その立場をふるに活用しての反対派粛清の断行の過程が第四節で描かれる。この時期は主に国内派が対象にされる。かれらは例外なしに「宗派分子」「地方割拠主義者」として処断される。
第1章から第5章を通じて明らかなことは、『略史』が「主体思想」にはじまり、「主体思想」に終わっていることであり党史である『略史』が完全に「主体思想」、すなわち金日成一色に塗りつぶされていることである。つまりこの『略史』は「北」労働党が「金日成党」であることを党史の形で確認したものといえよう。
鄭益友(論説委員)
1980年5月13日 4面掲載