個人崇拝→偶像化→神格化
金日成「革命伝統」作りで大転換
ソ連軍の庇護下で開始
金日成神格化の軌跡をさかのぼっていくと、「8・15解放」から約2カ月後の10月につき当たる。同10日に金日成は「平壌に入城」し、14日には「金日成将軍を「歓迎する平壌市民衆大会』」に参席、「朝鮮解放」に「決定的役割」を果たした「ソ連軍隊とスターリン大元帥万歳!」(同大会での金日成演説、49年版「朝鮮中央年鑑」国内篇P63)と感謝を捧げるとともに、スターリンにならってソ連軍政の庇護のもとに自らの個人崇拝を積極的に進めていったからである。
けれども、解放から数年間はいわば“戦国時代”といえた。解放とともに海外に亡命していた抗日運動家・革命家たちが帰国し、また国内にいた様々な系列の政治指導者も表面におどり出て、政治活動を展開していた。「北」地顔に限定しても、民族主義者冒晩植、国内系共産主義者玄俊赫、ソ運系共産主義者許・恰・朴昌玉、延安系共産主義者金科奉・羅昌益など指導者らが活動していたし、後に南から越北した朴憲永らの南労党系がこれに加わるという群雄割拠の状況を呈していた。
いかに金日成がソ連軍という「決定的」な力で庇護されていたとはいえ、また基本的には個人崇拝の方向を打ち出していたとはいえ、これら政治活動での、多彩な経歴と実績を誇る指導者らをないがしろにして個人崇拝を強力に進めることは不可能であった。
粛清で障害物排除する
金日成が個人崇拝を誰はばかることなく、本格的に推進することができるようになったのは、これら政治指導者とそのグループを抹殺してからである。まず民族主義者を追い出し、国内系共産主義者に手をつけた。
それから金日成は、南労党系、ソ連系、延安系へと粛清を急いだ。金日成は、自分と対立した他の指導者のすべてに「米帝の手先」あるいは「反覚・反革命分子」「スパイ」とのレッテルを貼りつけ、追放した。「8・15解放」後10余年聞の血みどろの権力闘争に勝った金日成は、金科奉・崔昌益ら延安系の粛清を完了した後の1958年3月6日に「朝鮮労働党第1次代表者会議」を招集し、同会議での「結論」を通じて、次のような権力闘争“勝利宣言”を行う。
「過去には朴憲永が悪かったがこんどは崔昌益が悪かった。……金科奉の罪は本当に大きい。今後、このような罪悪が再びくり返されないようにするためには、宗派主義の害毒性を全党的に認識させることがきわめて重要である」。「わが党の領導を拒否することは、すなわち革命を拒否することであり、資本主義に対して投降を意味するものである」(『金日成選集(5)』=P388~P390=60年6月20日「北」労働党出版社発行)
反金日成系の粛清は、金日成崇拝を進める上での障害物を取り除く作業でもあった。それ以来、「北」では金日成の満州における抗日武装遊撃隊の闘争を唯一の「革命伝統」とする方針が強力に進められた。前稿に一部引用した59年12月の「<党歴史執筆要綱>討論会」での金昌満演説も、その一つのあらわれといえよう。当然のことながら金昌満演説は「反党・反革命宗派分子たちである朴憲永、崔昌益、許・怡……金科奉」らをののしるが、なかでも崔昌益らが中国・延安で「独立同盟、義勇軍が活動」したと固執し、それを満州での「金日成の武装闘争と全く≪同格≫に置こう」と主張したことを厳しく非難している。
「全国的な版図」へ拡大
金昌満演説はまた、「崔昌益とその部下らが「≪国内闘争、国外闘争≫を……人工的に分離させ……国内においては自分たちが闘争してきたという式の(歴史を)書いてきた」となじり、「その余毒」がいまも残っていると述べる。そしてさらには、金日成の抗日武装闘争およびその政治活動過程を「全国的な版図」でとらえ、党史を書くべきだと「党歴史執筆省」に呼びかける。
「人民たちの進出が全羅道であろうと、咸鏡道であろうと、あるいは京畿直で起こっても、それは直接、間接に金日成同志の抗日パルチザン闘争の影響と指導下に起きたものである。30年代革命の総本部がここ、抗日パルチザン部隊にあったし、それは金日成同志が指導した」(「北」労働党中央委理論機関誌『勤労者』60年第1号。ここでは朝総連傘下の学友書房が60年5月83日に発行した『学習資料』第五集のP25~26に転載されたものを引用)しかし後に詳述のように、金日成の抗日武装闘争は規模の大きいものではない。その上、金成自らは太平洋戦争が起きて間もなくソ連に逃げている。金昌満演説がいかに「30年代の革命総本部」が、金日成の「パンチザン部隊にあった」と強弁し、その軍事。政治活動を「全国的な版図」で書けといっても、そもそもが無理な要求といえよう。前編でみたように「史料学的土台」は「貧弱」なのである。当然のことながら「論拠」不足を認めざるをえない。
こうしてみると、金昌満演説における金日成抗日武装闘争中心の「革命伝統」づくり方針提示は、それ自体が矛盾に満ちたものであった。しかしそれが、50年代末と60年代初の「北」の政治状況を大きくかえる契機になったことは、否定しようもない事実である。金昌満演説は金日成崇拝から偶像化・神格化への端緒をきり開いたのである。因みにここで一つ付記しておくべきことは、金昌満は金日成パルチザン出身でなく、金科奉・崔昌益と同じく延安独立同盟系であり、そして彼自身、後日粛清されている。金日成偶像化計略の絞滑さ、おして知るべしであろう。
『回想記』の出版で拍車
これを前後して、個人崇拝はそれがもつ独自の運動法則にしたがって、どんどんエスカレートしていった。史実の抹殺・改変・歪曲・ねつ造は、「北」の歴史界においては日常茶飯事となり、59年からは『抗日パルチザン参加者の回想記』が出版されはじめた。この『回想記』には現在「北」の金一、朴成哲副主席をはじめ抗日武装遊撃隊出身首脳幹部の多くが名をつらねており、かれらは金日成を「軍事的天才」であるばかりか、「縮地法」を使う紙のような存在として、また部下や人民のゆく先を「心慮」してやまない「慈愛深き父」として描いている。『回想記』がこのように金日成を人間ばなれした存在として描いたため、この本の内容を盛って61年に出された党史・『闘争史』は、すでにみたような異様な形様を帯びるほかなかった。
だが、個人崇拝運動はとどまることを知らなかった。やがてその運動は金日成神格化の域にまで進む。76年に入って「北」労働党中央委員会は、金日成の実子・金正一の“労作"といわれた『学習組員の義務に対して』と題す文書を朝総連あてに秘かに送り、そこで「北」は金日成「神格化」を朝総連「学習組」員に義務づけるとともに、次のような指示をおこなっている。
「われわれは偉大な首領さまを神忠誠憲誠心を持つよう、党員たちと動労者たちを教養しなければならない」
1945年10月スタートした金日成個人崇拝は、いまや「現人神」に崇めたてまつるまでに至ったのである。新版党史『略史』は、そのグロテスクな姿をそのまま映し出したものにほかならない。
1980年5月10日 4面掲載