六〇年安保が、つい一カ月近く前に成立したばかりだった。安保反対に伊吹も熱心だったようだから、その挫折感が理由だろうか。
しかし、その点に関しては、伊吹は黙して語らない。商店街に入ると、にわかに人通りが激しくなった。勤め帰りの人が、ぞろぞろと駅の方から歩いてくる。六時ずぎとはいえ、七月なかばだから、まだ充分に明るい。明るい中で外灯が灯(とも)っていた。
祥一はポケットの中で三個の鬼胡桃(おにぐるみ)を握っていた。大学に入ったとき、高校の同級生の片桐洋子がプレゼントしてくれたものだ。貰ったのは二十個ばかりだったが、祥一は、いつも三個を手にしていた。机に向かっているときも、外出するときも、常にその三つを手にし、折にふれては鳴らしている。音を鳴らしているだけで、何となく気が鎮まる気がした。
「鬼胡桃なのよ。これでも握って、指の皮をむしる癖をやめて下さいな」
胡桃(くるみ)といわずに、彼女は鬼胡桃といった。自分の家の庭で採れたものだという。
「胡桃は胡桃でも、これは特別に固くて、そして食べられないのよ。だから鬼胡桃というの」
彼女はそういった。祥一には、指の皮をむしる奇妙な癖があった。きまって、左手の親指である。授業中、無意識のうちにそれをやっているのだ。血がにじみ出てきても、まだむしり続けている。この癖をやめようと、親指に絆創膏(ばんそうこう)を巻いたことがあったが、こんどはその絆創膏をむしっている始末だった。
卒業式の日に片桐洋子から鬼胡桃を贈られたとき、祥一は内心、びっくりした。同じクラスとはいえ、ほとんど口を利いたこともない女生徒だったのである。しかも彼女の席は彼の席から数列離れていた。
いつのまに自分の癖を見ていたのだろう。
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彼は、自分に想いを寄せている彼女の心を感じた。それが照れ臭くもあり、嬉しくもあった。
誰からにせよ、想われているのは嬉しいものである。
「ありがとう」
と彼は彼女を見つめながらいった。彼女を正面から、まともに見つめるのもそのときがはじめてだった。
「頑張ってね」
彼女は顔を赧(あか)らめながらすぐに立ち去ったが、祥一が彼女に関心を向けるようになったのは、それいらいのことである。
彼女も上京した。そして渋谷にあるN化粧品会社に就職した。
<ここしばらく彼女に逢ってないな>
彼方の外灯を見やりながら祥一は自分の中で呟(つぶや)いた。すぐ隣りで伊吹のゴム草履の音が相変わらずペタペタと鳴っている。
洋子は自分にとって何だろ、と祥一は考える。肉体関係があるのだから、単なる女友達ともいえない。恋人かというと、そういう意識も祥一にはない。「ボディーフレンド」と、いつか大学の同級生が他の学生にふざけた口調でいった言葉が脳裡(のうり)をかすめた。しかし、祥一には、洋子のことをボディーフレンドなどと割り切る気持にもなれない。
では洋子は自分にとって何なのか。結婚の気もなしに肉体関係を続けているのはどういうつもりなのか。
第3184号 1984年6月21日(木曜日) 4面掲載