金日成登場期早めるため18歳から“独創的な労作”とウソ
詐術の上にまたも詐術
『略史』が党史叙述の起点をかえ、『闘争史』の1910年から1926年にくり下げたのは、金日成登場の時期に照準をあて、つじつまを合わせて党史を大幅に塗りかえるためであった。この要請に応えて『略史』は、抗日独立闘争の時代に金日成より多くの辛酸をなめつつ、苦闘し、死んでいった数多くの愛族・愛国的指導者たちを歴史から抹殺した。理念・思想面も例外ではなく、「北」自らが何十年もの間、「北」の指導理念・思想と強調してきたマルクス・レーニン主義を、金日成がわずか16歳で“創始”したと強弁する「主体思想」と簡単にすりかえてしまった。
この途方もない、歴史改変作業の“細々(こまごま)”を組立てたのがほかならないこの『略史』である。その当然の結果だろうが、史実を大きくかえて、いやでっち上げて従来にもまして金日成を飾りつけることにのみ腐心し、そのために詐術の上に、さらに詐術を加えるという悪循環をくり返している。
金日成が「8・15解放」以前の満州の革命組織で行ったとされる演説、またはその頃自らが直接書きおろしたとしている論文を最新版の『金日成著作集』(1)(79年4月15日、「朝鮮労働党出版社」発行)に収め、発表したのも、その悪循環の過程の産物といえよう。金日成生日67周年を記念して出されたこの『著作集』には、「8・15解放」から30有余年、まったく存在の知られていなかった金日成の“労作”が数多く収められており、序文に該当する「≪金日成著作集≫出版に際して」によると、これら一連の“労作はいうまでもなく「主体思想」で叙述されており、「政治、経済、文化、軍事をはじめとするあらゆる分野の思想と理論」を展開している。であるがゆえに、この“労作”は「革命と建設が提起する諸問題に全面的な解答を与え」る「主体思想の叢書であり、革命の教科書」なのである。
こうして『著作集』は、金日成が18歳の1930年に「共青および反帝青年同盟指導幹部会議」で「朝鮮革命の進路」と題して行ったという演説をはじめ、数々の“未発表労作"を収録している。そして、この『著作集』に収録された“労作"が本稿の対象である『略史』のいたるところで引用され、唯一の裏づけ資料とされるのである。
“かけ出し”の離れ業?
一例をあげてみよう。
「造成された情勢は、正しい革命路線と戦略戦術に基づき、革命を勝利のただ一つの直に導いていくことを切実に要求していた。まさに、このようなときに偉大なる首領さまにおかれては……≪朝鮮革命の進路≫という歴史的な報告をなされ、そこですでに成熟した朝鮮革命の主体的な路線と戦略戦術を闡明なされた。(中略)
偉大な首領金日成同志におかれては、次のような教示をなされた。
≪朝鮮革命の基本任務は日本帝国主義を打倒して朝鮮の独立を達成することと同時に、封建的諸関係を清算して民主主義を実現することにあります。
朝鮮革命の基本任務から出発する現段階における朝鮮革命の性格は、反帝反封建民主主義革命になるのであります。≫(≪金日成著作集≫第2巻、7~8ページ)」(『略史』39P)
さらに『略史』は、この18歳の金日成演説での「朝鮮革命の性格」規定に長女と解説を加え、これを「従来のブルジョア革命と社会主義革命の概念にとらわれることなく、わが国の具体的実情から出発なされ、主体的立場でわが国の革命の性格を独創的に明らかに」したものと礼賛してやまないのである。
だが、どうしても疑問を抱かせずにおかないのは、この時点の金日成が本当にこのような演説をしたかどうか、という点である。もし実際にしていれば、それなりに重要と思われるこの種の演説が、それが行われたという時から50年近ぐもそのまま放置されることは、常識的に考えてまずありえないといえよう。満州時代はともかくとしても、「8・15解放」後、公表の機会は数限りなぐあったはずである。
実際、これまでの「北」におしいては『金日成選集』、『金日成著作選集』、『金日成著作集』などと銘打った刊行物が多く出されている。パンフレットの類いを含めると、その数は数えきれないほどだ。それなのになぜ、半世紀を過ぎたいまこのようなものを「革命の教科書」とはやしたてて持ち出したのであろうか。
それも、一片の釈明もなしにである。
しかも、後に後述するように、金日成はまだこの時点では、抗日独立闘争に本格的に加わっていなかった。百歩譲って、もし加わっていたとしても、ほんのかけ出しであったはずである。このようなかけ出しの存在で、どうして「革命の教科書」といわれるような「朝鮮革命の性格」規定を「独創的」にするような離れわざをやってのけることができよう。
『北」内部で物議・反発も
とするならば、この『著作集』に収録されている“労作”は、抗日独立闘争を金日成の登場に合わせて、それをあたかも金日成ひとりが展開したようにみせかけるためにつくられた『略史』と補完関係にあるといえよう。
旧版党史の『闘争史』なるものも、金日成神格化を組織的に進める過程で、金日成中心の虚妄な「革命伝統」づくりキャンペーンの結果を“体系”化して出されたものでしかなかった。だからこそ当然のことながらこの「闘争史』には、史実が抹殺されたり、ねじまげられており、その一方では実在しなかったものがあたかも、史実であるかのようにねつ造されたり、とるに足りないものが針小棒大に吹聴されていた。
それだけに当時の「北」歴史学界でも金日成中心闘争を「革命伝統」にすえつけようとするのに、物議がかもし出され、反発が起こった、と伝えられた。1959年12月25日に開かれた「≪党歴史執筆要綱≫討論会」で行った「朝鮮労働党歴史研究において提起されたいくつかの問題」と題する金昌満演説は、その間の事情をこう説明している。
「・・・党歴史研究分野においてもわれわれが何よりも心痛いおもいせねばならず、また困難を感じるほかなかったのは、史料学的土台の貧弱である。・・・討論会で出てきた不平も史料が不足しているという問題である。・・・党歴史に関する書籍の第1の大きな不足点になっているのは、まさに史料学的土台の貧弱と論拠の不足、この2つである」(「北」労働党中央委理論機関誌『勤労者』60年第1号)
こうしてみると、最近版『金日成著作集』は、「史料学的土台の貧弱と論拠の不足」を補うつもりのものとみられなくもない。が、しかしそれは、現代の通念とはおおよそかけ離れた、前近代的思考に基づいてデッチ上げられたものなのである。「史料学的土台の貧弱」を埋め合わすものにならないし、「論拠の不足」を補完したことにもならない。かえって、金日成神格化にはしる「北」の体質をさらすことにしかならないのである。
鄭益友(論説委員)
1980年5月9日 4面掲載