日・ソ首脳会談が、十月の上旬に予定されている。そこでどのようなことが話し合われるか、定かではない。しかし、その会談で是非ともとりあげられねばならないものとして「忘れられた人々」-在樺太韓国人の帰還実現問題がある。日帝時代、祖国から強制連行され、牛馬のように酷使されたわが同胞が、解放後四半世紀を越える今日もなお、異郷に、人為的に取り残されたまま、生活苦に呻吟しているのである。"祖国の空が見たい""祖国の土に骨を埋めたい"一在樺太同胞の絶叫が聞えてくるような気がしてならない。
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野田にてイモほりをする在樺太同胞たち(1954年) |
日本帝国主義がわが祖国を植民統治していた三十六年間に、五百万人に達するわれわれの同胞が、祖国をあとにし、玄毎灘を越え、鴨緑江を渡った。独立運動を志して祖国を出た人も少なくないが、その多くの部分は、徴用・徴兵などによって強制・半強制的に連行された人々である。
解放直前、日本に二百万人、中国大陸に二百万人、ソ運領内のタシケントらに三〇万人、そして樺太に四万六千人-ざっと数えてもこれだけの同胞が国外にいた。そのうち、在日同胞百四十万人は祖国に帰り、現在約六〇万人がのこっている。しかし、その他の地域の同胞がいまどうなっているか、正確な実態はつかめていない。
「樺太抑留帰還韓国人会(朴魯学会長)」には、ハバロフスク、ナホトカ、イルクーツクなどソ連領の各地から、吉林省、黒竜江省、上海など中国各地からも、祖国・韓国の土を踏みたい、韓国にいる家族と消息の交換をしたい、と切々に訴える手紙が連日舞い込んでくる。彼らは、KBS(韓国・国営中央放送)の在樺太同胞むけ放送を聞いて、朴会長宅にそのような手紙を寄せてくるのである。
これをみれば、少数民族としてソ連、中国に存在している同胞の少なくない部分が、条件さえ許すならば、南・韓国に帰ることを望んでいることがわかる。異郷での生活を余儀なくされている同胞にとって、どの地域に居住しようと、その悲痛さに軽重があるわけではないだろう。しかし、個々人はともかく、総体としてみるならば、中国、ソ連に居住する同胞は、「北」地域の出身者が多く、「北」と中・ソ両国との間に国交が樹立されていることなどからして、まだ救われる、ともいえるだろう。
最も悲惨なのは、樺太に取り残された同胞たちである。在樺太同胞のほとんどの出身地が南であるにもかかわらず、韓国とソ運とは正式な外交ルートもない。韓国にいる家族も、まともな交信ひとつすらできないのである。しかも彼らのほとんどは、「樺太資源開発」「豊原飛行場整備」のために文字どおり強制連行されたのであり、異郷在住の歴史的背景において、現在のどの地域の同胞よりも、いたましいものがある、といわざるをえない。
在樺太同胞は、いま現在でも四万人以上はいるといわれる。そのうち、七五%が「北」の籍に入り一五%がソ連籍、残りの一〇%が無国籍(韓国籍)である。「北」籍、ソ運籍への入籍は、ソ連当局によって半強制的になされたもので、"無国籍"者は、韓国に帰りたい一念でそれを拒んできた人たちである。そのために、彼らは「北」・ソ連籍の同胞とも法的な差別を受け、隣村への旅行も自由にできないばかりか、大学までの進学は許されず、職業にしても底辺のものにとどまらざるをえないという。そのうえ、在樺太同胞間にも厳然とした三八度線があり、「北」側同胞からの圧迫にも耐えなければならない、というのである。
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「樺太抑留帰還韓国人会」と同会に協力する「妻の会」のメンバーたち |
"無国籍"者は、約四千人、「北」籍、ソ連籍でありながら、韓国に帰りたいとの意思表示をしている同胞は約三千人。合わせて七千人もの同胞が、韓国などへの帰還を希望しているのである(「樺太抑留帰還韓国人会」調べ)。
このほどソ連で開かれたユニバーシアード大会に韓国選手団が参加した際、樺太、タシケントなどから飛行機でかけつけた同胞二世が、いく人か同選手団を訪ねたが彼らは,無国籍"者ではなく、ソ連籍であったといわれている。
祖国解放から、ずでに二十八年間がすぎ去った。しかしいまもなお、わがはらからの骨肉は、南と北に、そしてソ連、中国と韓国に引き裂かれたままである。われわれは、南北対話を進展させることによって、南と北の離散家族の再結合を果さねばならない。しかし、在樺太同胞にどうても離散家族の再結合は果されねばならないのである。
今日まで、孤独に(そういっても過言ではない)「知られざる運動」をすすめてきた「樺太抑留婦選韓国人会」と同「妻の会」の活動を注視し、支援してゆかねばならない。在樺太同胞に帰還の道が開かれない限り、わが民族は、あのいまわしい植民地支配から自らを解放したことにはならないのである。
第597号 1973隼9月19日(水曜日)3面掲載