西荻窪の駅の近くの十字路にさしかかった。
伊吹健治はそこを真っ直ぐに渡ろうとする。
「おい、どこに行くんだ」
いつも行っている大衆食堂の「河野屋」は、ここを右に曲がらねばならない。
「今夜はシチューが食べたいんですがね。『リバー』に行きませんか」
伊吹は振り返りながらいった。そうか、リバーに行くつもりなのか。
「キッチンリバー」は、店は狭いが、清潔な感じの洋食屋である。少し値は張るが、肉は良質である。それに、河野屋より店が明るい。シチューを食べたいからには、そこに行くしかない。
河野屋は、大衆食堂だけに、シチューのたぐいはない。焼き魚とか、魚のフライとか、玉子焼きや目玉焼きとかが主なおかずの定食屋で、肉といったら薄く小さいポークソテーか、トンカツやハンバーグぐらいしかない。
「リバーに行くか」
祥一は応じた。風采(ふうさい)に似合わず、伊吹には美食家の面がある。最初にキッチンリバーに連れて行かれたのは伊吹によってだった。それまではいつも河野屋を利用していた。その店を教えてくれたのも伊吹がその一人である。味はどうということはないが、そんなことは祥一にはどうでもよかった。大体、祥一は、物を食べるのを面倒臭く思っているほうである。食べないと胃が承知しないから仕方なく食事するだけであり、人間はなぜ物を食べねばならないか、とさえ考えたことがある。
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西荻窪に引越してきてから一週間ほど経ってから伊吹にキッチンリバーを教えられた。そのとき伊吹はステーキを食べた。身すぼらしい身なりにゴム草履、それに髪はボサボサで不精髭を生やしている伊吹が、豪勢なステーキを、それもナイフとフォークを器用に使いながら食べている光景は祥一を驚かせた。飯も、フォークの背にきちんと乗せて食べている。祥一は伊吹を見直した。伊吹の部屋のおびただしい蔵書も考え合せて、伊吹が見すぼらしい身なりをしているのは、経済的理由のためではないことをあらためて確認した。
では、なぜ伊吹はあえて身すぼらしい身なりをしているのだろうと、それが祥一には不可解だった。思想のせいか、と考えたことがあったが、そうとも思えない。思想のせいだったら、高価なビフテキは食べないものであろう。祥一には、何となく、伊吹が一種の性格破綻者のように思えた。そして、祥一は、伊吹のそういうところに気安いものを感じた。ということは、祥一自身性格破綻者に近いものを含んでいる人間だということだろうか。祥一の部屋の本棚に、志賀直裁全集と太宰治全集とが隣り合せに並んでいるのが伊吹は不思議そうだったが、自分の中の性格破綻者に近い部分が、自分を太宰治に引き寄せるのだろうか。
教養課程から、志望した合成化学科に進級したのに、留年に踏み切ったこと自体、他の同級生には異様としか思えないに違いなかった。しばらく大学を休んで、読みたい本、特に小説を思う存分読みたいというのが留年に踏み切った主要な理由だが、それは表面的な口実にすぎない。専門以外の読書は大学に通いながらでもできるはずであり、じっさい彼はいままでそうしてきた。
本当の理由は、専門の勉強が手につかなくなっていたのだ。韓国での四・一九学生革命、そのニカ月後の日本での安保騒動が、祥一にも影響を与え、どう生きたらいいのかわからなくなっていた。いまのような生き方でいいのかという気持があった。
第3193号 1984年7月4日(水曜日) 4面掲載