大和朝廷と新羅の交流は779年の新羅使の来訪を最後に珍しく140年も続いた、外交関係を断つ。続いて200年以上続けた遣唐使も838年の派遣が最後となる。日本は隣国との関係を断ったうえ、唐王朝の形成する国際秩序からも離脱。以後、世界でも珍しいほど閉鎖的な国となる。
新羅と中国との交流を絶った時代に、日本と大陸の唯一の公式窓口となったのが渤海国だった。昔(今もそうだが)、国々の関係に「近攻・遠交」という政策があった。隣接する国とは争い、遠くの国と親しく交際して後ろ盾になってもらおうというものだ。百済や新羅が倭に使節を送ってきたのもその戦略によるものだ。
渤海国は唐から冊封されていたものの、そもそも国のルーツである高句麗を滅ぼした国であり、その関係は順風であったわけでもない。ましてや新羅は不倶戴天の間柄。日本とよしみを通じておこうというのは必然的な戦略だった。逆に新羅が日本との外交関係を断ったのも、日本が渤海と関係を深めたことによる反発であったのだろう。
渤海は698年、震国という名で建国、713年に渤海国と国名を変えたのだが、最初の使節がやってきたのは727年9月21日のこと。建国の立役者・大祚栄は高王となったが、719年に崩御。その息子の武王による派遣であった。
24人の使節を乗せた船は出羽国(今の秋田、山形)に着いたが、大使の高仁義を含む16人が蝦夷に殺されてしまう。生き残った8人は平城京にたどり着き無事、聖武天皇と対面、武王からの上奏文と貂の毛皮などを献上したと続日本紀にある。
この悲劇的で決死の来訪が両国の交流の始まりで、以来922年までの200年間に渤海使の来訪は34回、日本からの派遣は13回を数える。771年の使節は325人と拡大。応接に困った日本側は6年ごとの国使交流を提案したのに対し渤海側は無制限を主張、その要望が認められ来着が頻繁になる。
簡単な地図を作ってみたが、沿海州から韓半島沿岸には本流の対馬海流とはまったく逆に流れるリマン海流がある。対馬海流の暖流がアムール川から流れ出す淡水と混ざり冷やされながら南下する不思議な海流である。渤海の地からリマン海流に乗り南下すれば容易に日本列島に着くのだが、この方法だと宿敵・新羅の領土に近づいてしまうことになる。このため五つあった都の一つ、東京龍原府に近い今のロシア領のポシュット湾から列島を目指して一直線に出航した。日本海の荒波と正対する海流を渡る危険な航海だったため、到着地は、北は出羽から南は長門(山口)など定まらなかったが、ほとんど海難はなかったらしい。
後期には操船術が進化したため、能登半島や加賀地方に到着することが多くなる。元来、この地方の中心地は福井県の武生にあった越前国府であった。しかし渤海使の到着地から遠いということで分国されて作られたのが加賀国府だったという。平安時代の官僚のエースで歌人でもあった菅原道真が加賀国司として投入されたのも、渤海使の接待や詩文交換などで恥をかかぬように万全の対応をしたものと思われる。
奈良時代の権力者、藤原仲麻呂(ハイカラ趣味で恵美押勝という名も持つ)が、渤海使をわざわざ私邸に招いて詩文交換したという記録がある。私邸は今の奈良市にある法華寺と海竜寺の寺域の広大なものであった。
仲麻呂は軍事権を持ち4万700人の兵、1万7036人の水夫に動員命令を出し、394叟の船と唐の武器に習った最新の兵器の製造(非常に具体的)を指示し、本気の本気で新羅に攻め込もうとした。
この新羅討伐計画は孝謙上皇との対立で権力がゆらぎ中止となったのだが、仲麻呂が動員命令を発したのは761年、私邸に渤海使を招いた3年後のことである。渤海と新羅の境は今の韓国と北朝鮮とほぼ同じ。タイミングが妙に合う。仲麻呂と渤海使の間で新羅への挟撃、挟み撃ちの密議があったのではないかと想像がふくらむ。
さらに想像する。焦った仲麻呂は764年、軍事力で政権を奪取しようとする(恵美押勝の乱)。そのクーデターに失敗した仲麻呂は平城京から北陸方面に逃亡を図るが、越前手前で阻まれ迷走、琵琶湖船上で捕らえられ斬られるのだが、ひょっとすると渤海へ亡命しようとしたのではないのか。
蝦夷鎮圧のための多賀城遺跡(宮城県)から発見された石碑に”靺鞨国(渤海)まで三千里”と刻まれていたことは前回書いた。それは古代、7世紀以前は大陸と奥羽を結ぶ海の道があったことを表す。そのほんの小さな道は8世紀から10世紀にかけては、大陸と日本列島を結ぶ表街道となっていたということだ。
<つづく> |