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最終更新日: 2025-03-04 12:42:23
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2025年02月04日 11:40
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柔道から学んだもの  韓日の架け橋「在日」のみなさんのおかげです<3>
朴忠弘・大阪ワッソ文化交流協会理事長

第2回「挫けない心と姿勢」

 朴忠弘一家が日本に定住したのは1920年代のこと。父・朴在春は、奈良県大和郡山の農村、矢田口で農業を営んだ。始めこそ日本人の土地を借りて農業を営む小作農だったが、農地改革が行われた頃から少しずつ土地を買い、やがては2千坪の農地を耕す自作農となった。農業で大金を稼ぐことはできなかったが、食べるには事欠かなかった。両親はコメやサツマイモ、スイカなどさまざまな作物を作っていた。
「比較的食べ物には恵まれていたせいか、頑丈な体に育ちました。小学校には2000人以上の児童がいましたが、中でも私は背が高く力も強いほうでした。父は『朴忠弘(ボク・タダヒロ)』という名前で学校に届け出をしていたので、友人からは『ボクボク』と呼ばれていましたね」そうした呼ばれ方を差別だと感じたことはなかった。日本に朴(ボク)という姓を名乗る人はいないため、幼少期から「自分は日本人ではない」と悟っていた。思えば、早い段階で自分が周囲とは違う存在であることを自覚したことが、生きる原動力になった。
朴忠弘は勤勉だった。学生時代の特技は柔道で、中学1年から大学まで、ずっと柔道と共に過ごしてきた。練習を休んだり遅刻したりすることは一度たりともなかった。
「奈良県では天理中学・高校が柔道で有名なんですが、うちの学校にはコーチすらいなかったんです。こちらは先輩に教わっているため、どうしても天理には勝てない。技術的なレベルが雲泥の差なんです」
試合に負けるとリベンジをはかるためさらに練習に励み、腕を磨いた。中学から大学まで柔道部のキャプテンを務めていた朴忠弘だが、国体に出場したことはない。国籍が韓国であるため、公式試合に出場するチャンスを与えられなかったからだ。
柔道部のトップでありながら、練習試合しかできないという状況だった。それでも、柔道に勤しんだことに悔いはない。柔道を通し、生きる力を学んだからだ。
「一番大きな収穫は、忍耐力と持続力が身についたことです。暑さ寒さに負けず、自分の壁を乗り越えるために諦めず努力を重ねました。まさに”挫けない心”を学んだのです。柔道の選手としては活躍も成功もできませんでしたが、柔道は生きる姿勢を教えてくれました」
「行動ありき」という教訓も柔道を通して学んだ。さらに、本もまた人生における師となった。
小学校6年生の時、野口英世の伝記を読んだのがきっかけで、怠けず一生懸命に生きようと決意した。野口英世は貧農に生まれ、左手に障害を負いながらも、多くの人の命を救う医学者になった。朴忠弘は野口を仰ぎ、人生に希望を見いだした。(つづく)
(ソウル=李民晧/取材協力=在外同胞庁)

学生時代の朴忠弘(前列右から1番目)

2502-05-04 4面
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