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最終更新日: 2025-03-13 05:39:09
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2025年01月28日 12:33
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新解釈日本書記「続」応神 幻の大和朝廷 第66回 伴野麓

 それは、非学問的な独断の解釈だとされ、『日本書紀』中心の古代史像がいかに歪んだものであるかを意味するものだと指弾されている。さらには反正陵は現在、応神陵と比定されている大阪府羽曳野市の誉田山古墳だとする説もある。
仁徳朝は、沸流百済の傀儡的存在である葛城氏が、和珥氏族に代表される新羅系山陰王朝の勢力を排斥したことにより誕生したと考えられる。葛城氏族の磐之姫が、仁徳の正妃になったことからも推測できるのだが、菟道稚郎子の妹である八田姫に嫉妬したとされる磐之姫が、葛城の地ではなく、山城にある韓人奴理能美の屋敷に隠棲した。それは、磐之姫が奴理能美の娘であり、葛城氏が沸流百済の傀儡であったことを暗喩するものだ。

〔允恭紀〕

朝津間は渡来人が多住した地


允恭の和風諡号は雄朝津間稚子宿禰(おあさづまわくごのすくね)で、臣下の称号である宿禰がつく唯一の大王ということだ。允恭という普通名詞は「まことに・つつしむ」という意味で、持病を理由に、つつましく重臣たちの推挙を固辞していたのだが、妃の忍坂大中姫の必死の説得に折れて大王に就任したという経緯が、允恭という漢風諡号になったのではないかとも推定されている。
允恭は仁徳と磐之姫との間の第4子とされ、長子の履中と第3子の反正、そして允恭は同腹の兄弟とされているが、反正は八田(矢田)姫の子で、履中と反正は同腹ではなく、異腹の兄弟であったことを明らかにした。
では、允恭はどうなのか。雄朝津間稚子宿禰という和風諡号から、允恭は、大和の朝津間の地で生まれたと考えられるが、それはその地の女人を母、あるいは乳母にしている可能性があるということだ。朝津間(朝妻)の地はまた、かつての南葛城郡葛城村大字朝妻の地で、現在の御所市に比定され、忍坂大中姫の故郷であったとも考えられている。
朝津間は、『新撰姓氏録』によれば、応神朝に百済から127県の民を率いて渡来した弓月王が、金銀玉帛など種々の宝物を献上して、大和朝津間(朝妻)掖上の地を賜ったと伝えられ、同じく〈大和国諸蕃〉に、朝妻造、韓国(からくに)人都留使主の後であると記す地だ。そうであれば、その地は韓地から渡来した人たちが多く住む当時の先進地域で、允恭の母も、渡来人の女人を母にしていた可能性もある。

允恭を擁立した忍坂大中姫・弓月王グループ

新羅という名称は6世紀初頭に生じたとされているから、允恭時代の韓地南部は、伽耶という国が健在であったと考えられ、新羅と表記されていても、それは実際には伽耶を意味していたとも考えられる。

2501-29-06 6面
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