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最終更新日: 2025-03-13 05:39:09
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2025年01月21日 11:55
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新解釈日本書記「続」応神 幻の大和朝廷 第65回 伴野麓

 それは、『記・紀』の記述の虚偽性を暗喩するものでもある。ということは、『日本書紀』は史書ではなく小説ということにもなり、また”韓隠し”を埋め込んでいることから、それらを指弾し新解釈することが必要であると痛感せざるを得ない。


反正の名代である丹比(蝮)部の原郷は但馬にある

去来穂別(履中)に対する住吉仲の反乱は、住吉仲と瑞歯別(反正)との後継者争いであり、それは安曇・海部氏族と和珥氏族との覇権闘争でもあって、結局は和珥氏族が勝利する形になり、反正朝は、応神朝の状態に戻ったことを示唆することは先に述べた。
換言すれば、反正の母は磐之姫ではなく、菟道稚郎子の妹である八田姫であり、菟道稚郎子が太子であり、大王になったであろう流れに戻ったということを意味する。それは、仁徳・履中と続いた沸流百済主導の百済系大和王朝が、和珥氏に象徴される先行の新羅系山陰王朝に戻ったことを意味する。
正史である『日本書紀』は、反正(瑞歯別)が淡路島で生まれたとしているのだが、当初は淡路がタンロと読まれ、タンジと読まれていたことは以前、明らかにしている。吉田東伍著『大日本地名辞書〈河内国〉』にもあるように「日本紀に丹比を淡路(たんぢ)に作り」とあって、淡路は丹比のこととしているから、反正は淡路島で生まれたのではなく淡路=丹比(たじひ)で生まれたと見るほうが理に叶う。『記・紀』編纂者らはそのことを知らずに、淡路をアワジと読み、淡路島で生まれたと勘違いしたようにも思われる。
反正の名代である丹比(蝮)部の原郷は但馬にあることを突き止めたのだが、サンカ(山窩)の生業の一つにマムシ(蝮)捕りがあり、河内の丹比地域にもマムシが多く、但馬から呼び寄せられて活躍したようだと伝承されている。マムシ酒があるように、往古マムシは幅広く活用され、反正朝の大きな財源の一つになっていたことを暗喩する。その丹比部は、新羅系山陰王朝の始祖であるホアカリ(火明)=ニギハヤヒ(饒速日)の後裔氏族とされる。
反正が、新羅系山陰王朝の影響を強く受けていたがゆえに、『記・紀』により冷遇されたと考えられるのだが、反正の都城は、河内の丹比柴籬宮(たじひしばがきのみや)ということで、現在の大阪府松原市だ。その地には、反正の記録は失われても名君だったという記憶が残っているといい、その記憶は後世まで長く伝えられていたようで、昭和47年(1972)に中河内郡役所が編纂した『中河内郡誌〈復刻版〉』に収められている。また、松原市のホームページにも紹介されている。
江田船山古墳から出土した鉄刀の銀象嵌による銘文が「治天下□□□□歯(鹵?)大王」というもので、「治天下蝮宮瑞歯大王」と推定され、瑞歯(反正)大王は蝮宮で天下を治めたという意味になるとされてきたが、その後、埼玉県稲荷山古墳の鉄剣銘が「獲加多支鹵大王」で、雄略を意味すると解釈され、日本史学界は江田船山古墳の大王名も反正から雄略に変えてしまったということだ。

2501-22-06 6面
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