その論文数から姜在彦の思想的転換を見る。
その数は朝鮮総聯と距離を置き始めると増えてくる。そして1981年の訪韓以後は飛躍的に増えていく。マルクス経済学の縛りから脱したのであろう。姜在彦自身は、「66・67年を前後して、朝鮮総聯もきわめて鮮明に”祖国と人民のため”の組織から、”首領様のため”の組織に大変身をとげた。もちろん、それ以前にも個人崇拝はあった。しかしこの時期の象徴的なことは、活動家はもちろん一般家庭にまで首領様の肖像画を丁重にかかげるよう、強制し、首領様への忠誠度を点検する尺度にした。植民地時代にも、天皇の御真影を学校の奉安殿に保存したのであって、一般家庭にかかげるよう強制しなかった」(『歳月は流水の如く』51頁)。
ここにいう「首領様」とは金日成を指した。姜在彦は金日成とその一族に忠誠を尽くす主体思想に批判的になり、「主体思想」を金日成に服従させるマインド・コントロールだと受け止め、朝鮮総聯の組織を離れる。
姜在彦は、朝鮮総聯に所属していた在日社会を主体思想という金日成一族に忠誠を誓う組織に変貌させた力の背景に連座制があったと分析する。その分析は徐彩源との交流から生まれたのであろう。
それは社会主義の夢に引き込まれ「帰国船」に乗った息子が、北朝鮮で罪もないのに逮捕される。父親が全羅南道順天の故郷を訪れた、というだけで、北朝鮮社会の市民生活を真面目に過ごしていた息子がスパイとして追及される。
連座制が適用され、父親は謝罪で平壌へ赴く。同じ順天出身の徐彩源には許しがたい事例であった。歴史家の姜在彦にとって、北朝鮮が在日社会を巻き込んでいく連座制は認めたくないことであったのだ。それは連座制が朝鮮王朝を髣髴させたからである。
封建社会に遡るかのような主体思想を支える連座制は、歴史家姜在彦を朝鮮総聯から徐彩源が支援する『季刊三千里』誌のグループに引き寄せる。それが姜在彦の思想的ホップとなる。そして次に吉林省延吉での朝鮮族研究者との交流がステップとなる。
姜在彦は朝鮮総聯の活動を振り返って以下のように心を痛めている。
「私が朝鮮総連の活動期を振り返ってもっとも胸の痛いことは、59年12月からほぼ10万人に近い在日同胞が、北朝鮮にバラ色の夢を託して帰国したことであった。そういうバラ色のイメージをばらまいてきた私も、責任の一端を免れうるものではない。帰国者家族を持つ在日同胞は、今日でも帰国した家族に対する”連座制”丸出しの報復を恐れて、日本での言論と行動の自由をうばわれている。私が中国吉林省の延吉を訪問したとき、この北朝鮮への帰国船を、宣伝にだまされた”奴隷船”と呼んでいたことを聞いて愕然とした」(『前掲書』、60頁)。
奴隷船と呼んだのは、朝鮮族の歴史学者であったから、余計に姜在彦が心を痛めたのであろう。
81年の徐彩源に伴っての訪韓以後、姜在彦は呉星会の呉貴星の存在を再確認する。呉貴星は、関喜星という日本名で62年に『楽園の夢破れて』を出している。
帰国事業が始まった後に北朝鮮の実態を告発した書籍である。この書籍の刊行後に、いわゆる帰国事業は萎んでいく。徐彩源の加わっていた呉星会は、関喜星を取り巻くグループの名称であった。
姜在彦・竹中恵美子共著の『歳月は流水の如く』は、姜在彦が呉星会の徐彩源に導かれてジャンプした生涯を振り返った記録でもある。 |