一冊が崇高な芸術作品
二〇二四年のノーベル文学賞をハン・ガンが受賞した。アジア出身女性として初の栄光である。受賞を祝して、今回はハン・ガンにまつわる文字の話を閑話として記してみたい。
彼女は言語に対して徹底的なこだわりを持っている。そのこだわりが作品の大きな魅力でもある。数種のフォントを文章内で使い分ける。明朝体とゴシック体というレベルの違いではない。日本語フォントでいえば、教科書体やイタリック体を駆使するとでもいうべきだろうか。印刷する紙も使い分ける。掲載する写真にも徹底的なこだわりを持つ。彼女は自らの文学を文字情報だけで捉えているのではない。一冊の本を崇高な芸術作品として昇華させているのである。
最新作は『別れを告げない』だ。この作品は韓国政府が長い間伏せていた済州島虐殺事件(四・三事件)がテーマになっている。そのため、済州島方言や韓国の固有語が随所に登場する。各国語の翻訳者は大変な苦労をしたであろう。日本語の翻訳を担当したのは斎藤真理子である。彼女はこの作品を翻訳するにあたって、済州島方言を徹底的に取材した。そしてそのあり方が日本の沖縄方言に似ていることを知った。そこで沖縄方言をも徹底的に研究して翻訳に使用した。これが見事に生きている。文学が国際化する時、翻訳者との連携プレーは必須なのである。
『別れを告げない』は、もともと『雪三部作』と称する連作小説の完結編として書き出されたものだ。それが様々な要因で独立した作品となった。だから作品の「雪」のイメージは際立っている。真っ白い「雪」と、虐殺による真っ赤な「血」。鮮烈な色によってこの小説は成り立っている。「雪」には「ソル」という漢字語と「ヌン」という固有語が存在する。情に迫るのは「ヌン」である。
白へのこだわり
ハン・ガンの作品で日本でヒットしたものに『すべての、白いものたちの』がある。これも斎藤真理子が翻訳を担当した。英語訳では『The Elegy of Whiteness』で「白の哀歌」とでもなろうか。中国語訳では『白』となった。
なぜ各国語でタイトルが違うのだろうか(図参照)。その原因は原題にある。韓国の固有語『ヒン』だ。「ヒン」とは「ヒダ(白い)」という形容詞の連体形である。だから「ヒン」の次にかかる言葉が続かなければならない。ところが「ヒン」で止まっているので「白い…?」となるわけである。ここに作者の深い意図がある。『すべての、白いものたちの』という訳が的確で優れている所以である。
ハン・ガンは徹底的に「白」にこだわる。この「白」へのこだわりはアジア各国の中でも日本と韓国にだけ存在する稀有なものである。大和言葉の「しろ」は「しろし」の語幹だが「記し」が原意で、無限の表現が可能だ。韓国語の「ヒダ」も同じで韓国の固有語として多様な表現が可能となる。日本では「白」が最高位の色である。大宝律令の規定でも「白」は天皇しか使用することを許されていない。
漢字の「白」の原意は未だ不明である。様々な説が存在して定説を見ない。白川静はその原意を「髑髏(どくろ)」だとした。筆者も同意見である。彼は、自らの姓が「白」であるので徹底的に「白」を探求した。魂魄という表現を神道で多用するが、人は死すと「魂」と「魄」に分かれる。「魂」とは白骨に宿る。「魄」は「白」に由来する。
今回の受賞理由は、「歴史のトラウマと向き合い、人の命のはかなさをあらわにする強度の高い詩的散文に対して」である。その意味は深い。死と隣り合わせの「白」そして「ヒン」。これこそが彼女にふさわしい漢字なのかもしれない。(つづく)
水間 一太朗(みずま いちたろう)
アートプロデューサーとして、欧米各国、南米各国、モンゴル、マレーシア、台湾、中国、韓国、北韓等で美術展企画を担当。美術雑誌に連載多数。神社年鑑編集長。神道の成り立ちと東北アジア美術史に詳しい。 |