『記・紀』は、女鳥王と速総別が、仁徳の追手に追われて大和の山奥に逃げたと記すのだが、丹後にかつて倉椅山や倉椅川があって、女鳥王と速総別が逃げてきた伝承がある。それは、京都府宮津市須津という地の伝承で、その地に鎮座する須津彦神社と須津比売神社の祭神は、速総別王と女鳥王だという。
また隣接の与謝郡与謝野町(旧岩滝町)には大内峠があって、王落峠が語源だと伝承されている。一つは女鳥王と速総別が逃れた道だといい、もう一つは億計王と弘計王が身を隠した道だという。そのように、かつての丹後は朝廷と深い関係にあったことを暗喩するのだが、次第に軽視・無視されて、史料からもそうした伝承が消えていったと考えられる。
丹後勢力は、由良川を遡り、大和に進出して、初期の大和王朝を樹立した勢力だと考えられる。それらの勢力は、『海部氏本系図』や『海部氏勘注系図』に見える天村雲や建田背、仁徳朝では難波根子武振熊宿禰の活躍に現われていると思われる。
伊藤博文らの偽史シンジケートは『日本書紀』の内 容まで改竄
応神朝には弓月王が120県民、阿知使主が17県民など、実に多くの人が倭地に渡来した。しかし、「今も昔も、日本列島の人口は半島の約3倍である。中国型の都市文明の発達こそ、列島は半島より一歩遅れていたけれども、何かの永続的な刺激があれば、都市化と王権の成長が進むだけの条件は整っていた」といった論述が平然となされている。
韓半島から倭地に渡り、倭地に定住して韓半島と接触すれば、それは倭地の人物となり、渡来前の出自は隠蔽されてしまうということになる。そうした倒錯の論述がまかり通っているのは、とんでもない錯覚論というほかない。
太古の時代、日本列島は無人島に等しい地であり、韓半島からの渡来人が列島を開拓したという史実に目をそむけてはならない。『神皇正統紀』は、「異敵の来襲は開化48年の時に3万3000人、仲哀時代に20万3000人、神功時代に30万8500人、応神の時に25万人、欽明時代に30万400人、敏達の時には播磨国の明石浦までやってきた。推古8年に43万人、天智元年2万3000人、桓武6年40万人」と記すように、「異敵の来襲」という文言は「韓半島からの渡来」という語に置き換えることができるはずだ。
日本史学界の通説は、〝幻の大和王朝〟説、つまり大和王朝畿内説で、卑弥呼時代の銅鏡が畿内地域の4世紀古墳から集中的に出土するということを根拠にしているという。 |