謎だらけの日本列島の古代史において、1984年に来日した韓国の全斗煥大統領を招いた晩餐会での天皇陛下(現上皇陛下)のお言葉が興味深かった。
「我が国は貴国との交流によって多くのことを学びました。例えば紀元6、7世紀の我が国の国家形成の時代には、多数の貴国人が渡来し、我が国人に対し学問、文化、技術等を教えたという重要な事実がありました…」。
このお言葉はそれに続く「今世紀の一時期の不幸な過去は遺憾であり…」の陰に隠れてマスコミはほとんど取り上げなかったが、今も日本古代史の大勢である『4世紀半ば、国内統一を終えた大和朝廷』を天皇陛下がはっきりと否定されたのであるから画期的なものであった。
日本列島に統一国家が生まれるまでは九州や大和、出雲だけでなく、吉備や越前、濃尾、東方には武蔵など、各地に大小の国があった。統一国家ができる前の初期国家群がうごめいていた5世紀に、列島の5人の王が相次いで中国の王朝に朝貢、爵位の叙正を求めたという記録が宋書にある。前号でも少し触れたが、百済や新羅を含め韓半島南部の国々を支配していると主張しているのだ。考えれば考えるほどわからなくなる。私の古代史№1のミステリーだ。
爵位の叙正とは、要請者が自ら申請した称号を中国朝廷に認めてもらうという方式で、自称がそのまま認められるとは限らない。
5世紀に宋に朝貢した日本列島の5人の王を年代順でいえば、「讃」「珍」「済」「興」「武」であり、讃の場合は413年を最初に使者を4回も派遣しているが、朝貢しただけとみられ、実際に叙正を要請したのはその後の4人の王であった。いずれもなぜか中国人風の名である。
讃の弟とみられる珍が438年に要請した爵位は「使持節都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」という長ったらしいものであった。「使持節」というのは将軍の官号で、郡の長官以下を殺すことができる権限を与えられた位。「都督…諸軍事」は、もろもろの軍事のすべてを督いる―という意味の称号。したがって前述した6国に関する軍事権すべてを掌握している意である。「安東将軍」とはいわば極東方面軍司令官だ。
もの凄い国力を誇示しているのだが、宋王朝が認めたのは「安東将軍・倭国王」という最後だけの叙正で、しかも大将軍の大の字は削られ、韓半島の5国の支配は認めていない。宋王朝の倭国に対する評価がまだまだ低かったことを表す叙正であった。
また珍は自らのほか、関係する13人にも平西将軍号などや官爵の授与を要請していることにも注目したい。珍の将軍号と他の3~4人に与えられた将軍号はいずれも第三品の位で、官品の上では同格に近い。このことは国内ではまだ統一されておらず、小国王や部族長が並び立つ首長国連合であったことがわかる。
珍の5年後の443年に朝貢した済は最初、珍と同じ安東将軍と倭国王しか認めてもらえなかったが、8年後に「倭・新羅・任那・加耶・秦韓・慕韓六国諸軍事」の称号が認められる。そして23人もの人に叙正を要求している。支配地や友好国が広がったのだろうか。
かくして1600年も前に東海から韓半島南部にまたがる東夷の小帝国の存在が認められたということになるが、そう単純ではないようだ。繰り返し主張した百済の支配権は却下。その理由は、百済は倭王以前に朝貢ずみで、しかも官品はより上の二品をもらっていたからだ。倭王の井の中の蛙ぶりがわかる。しかも百済の却下により加耶を加え6国諸軍事の辻褄合わせをしたが、加耶は任那とほとんど同じ地域であったのではなかったか。また新羅に関しては当時、宋へ朝貢しておらず、宋にとって無関心な国であった。秦韓、慕韓に関しては諸説あるが、秦韓は旧・辰韓、慕韓は旧・馬韓のことで、すでに実在しない国であったとみられる。つまりほとんど内容のない支配地であったといえよう。
…と、ここまで書いてきたら紙面が尽きてきた。5世紀、宋に朝貢したあとの2人、興と武まで語れない。果たして五王は何者であったのかなど、次号でもやりたい。
この五王の朝貢は国家の重大事であったにも関わらず日本書紀にも古事記にも一切書かれていない。それなら宋の記述は本当かと思う人もいるだろう。中国の歴代の国史も時に、倭や日本についていいかげんなことが書いてあることもあるが、朝貢の話だけは正確だ。今も中国の人民日報やCCTVを見ればわかる。中国を訪ねたどんな小さな国でも新聞の一面やTVニュースで大々的に扱う。今も、過去の王朝への朝貢使の歓迎の風習が生きている。中国人は国威を示す朝貢が古代から現代まで大好きなのだ。 <つづく> |