金達寿、李進熙、姜在彦ら『季刊三千里』誌の発行同人が訪韓したのは、1981年3月末であった。訪韓直前に、私は金達寿に呼ばれて訪韓する趣旨の説明を受けた。それは「NHKに朝鮮語講座の開設を要望する会」の運動が韓国で誤解されている、在日の子弟にソウルの言葉を知って貰う目的を内包した運動だと理解して貰わねばならない、というモノだった。
NHKがなかなか朝鮮語講座の開設に踏み切らない、踏み切れない理由に「要望する会」の運動への誤解がある。どうも韓国筋から運動の背後に北朝鮮がいると見られていることもその一つだろうと述べた。
金達寿の説明は「NHKに朝鮮語講座の開設を要望する会」の立ち上げから事務局を仕切ってきた私への礼であったのだろう。訪韓の表向きは在日受刑者の赦免請願であったが、徐彩源社主以下、金達寿、李進熙、姜在彦の訪韓は「NHKに朝鮮語講座の開設を要望する会」の運動が当時の朝鮮総連が進めていた平壌文化語による民族教育を推奨する運動ではないことを明らかにする目的を内包していた。
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姜在彦が、この訪韓を主導した三千里社の徐彩源社主に対して、その没後に深い感謝の言葉を表していることからも推察される。
「徐先生は、私自身の人生の節目にも、じつに深くかかわっていたことを、今更ながら考えさせられます。その一つはやはり、13年間にわたる『季刊三千里』とのかかわりです。私自身をかえりみても、四十八歳の若さでこの雑誌にかかわって、そのなかで還暦をこえてしまいました。社主の徐先生や編集委員たちは、揃いもそろってかつては朝鮮総連で活動していた似た者同士でした。それだけにあらぬ疑いもかけられ、いろいろ辛酸を嘗めましたが、いまはなつかしい想い出だけが残ります」(『追想の徐彩源』37頁、刊行委員会、1988年刊)。
『季刊三千里』誌の刊行から、「NHKに朝鮮語講座の開設を要望する会」を支え続けた徐彩源社主への想い出を記している。
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更に姜在彦は訪韓を振り返って次の言葉を残した。
「いろいろな批判のなかで、訪韓を決意してよかったと思った。すでに当時、われわれが希望を託してきた北朝鮮にも、その出先団体である朝鮮総連にも絶望していた。
とりわけ、1974年2月に、金日成から金正日への権力継承が公然化し、在日の出先団体が父子へのたんなる忠誠組織に転落するのを見て、北朝鮮への一かけらの幻想も、完全に打ち砕かれてしまった。もう一つの祖国をじかに見て、いろいろな問題をかかえてはいるが、そこに希望を託せる確信をえた」(『歳月は流水の如く』74頁、青丘文化社、2003年刊)。
ここに回想されている「もう一つの祖国」とは、徐彩源社主に従って訪問した韓国を指すのである。朝鮮戦争前の韓国を知っている姜在彦は、農村風景の変化を目撃して感動している。地をはうようなあばら家が際限もなくつらなっていた農村風景を見ることがなかったと、朴正熙大統領の進めたセマウル運動への驚きの感情を言葉にしている。
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姜在彦は1974年に『季刊三千里』誌の同人に加わったときには、権力継承から北朝鮮への幻想が打ち砕かれたと述べ、81年3月の訪韓からもう一つの朝鮮、韓国へ希望を託せる確信を得た、と述懐する。
そして、その人生二つの大きな分岐が徐彩源社主によってもたらされたと深く感謝している。
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