倭の百済救援軍派兵は、多くの人々の運命を変えた。斉明天皇は西征のため660年12月24日、難波を発ち福岡へ向かった。生きて帰ることのない運命の道だった。
倭国の首脳部は福岡に百済救援軍の本営を設置することにした。そして、福岡へ向かう途中で兵士たちを集め訓練することとした。その場所はおそらく熟(にき)田(た)津(つ)だったと思われる。天皇は難波を出発してから4カ月後の5月9日、福岡の朝倉宮(あさくらのみや)に着いた。その道中、天皇と首脳部は熟田津に滞在した。
福岡は対馬島と韓半島の釜山に面し、韓半島から最も近い場所だ。そこにはあらかじめ天皇のために朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)が建てられていた。天皇が到着する前に人夫たちを送ったのだが、この人夫たちは、腕は良かったかもしれないが思慮分別がなかった。近くにあった朝倉社(あさくらのやしろ)の神木を伐採し、建築用に使ってしまったのだ。もし天皇が事前に知っていたら激怒し許さなかったはずだ。
天皇が到着した後、宮が崩れたり鬼火が現れたりした。天皇の側にあって世話をしていた大舎人や近(きん)侍(じ)たちが病気になり、死ぬ者も出た。人々は、神木を伐ったことで朝倉社の神の怒りに触れ、このようなことが起きたと噂した。皆が恐怖に戦いた。それから2カ月も経たないうちに、天皇は急な病気になった。そして数日後、大変な事態になる。斉明天皇が崩御されたのだ。想像もできなかった急変だった。死因は伝染病と考えられる。季節は夏であり、遠くないところでは全国から徴発された兵士たちが集団生活をしていたのだ。伝染病の蔓延は十分に予想されることだ。現代の兵営でも大規模な感染が憂慮される条件だった。
天皇に仕えていた近侍らが数人死んだというのは、伝染病が広がったことを意味する。伝染病が天皇の近くにまで忍び寄ってきたのだ。当時、西征軍も伝染病の感染に苦しんでいたに違いない。兵士たちがまき散らした伝染病が斉明天皇を倒したのだ。
斉明天皇は自分が再起不能であると知っていたはずだ。彼女が作った歌がその事実を証明する。万葉集12番歌だ。
(間人皇女の作とされているが)作品の内容や配置順から見て斉明天皇の作品に違いない。歌の内容を読み解けば、「辞世の歌」とわかる。
吾欲之
野嶋 波 見 世 追 底深 伎
阿 胡 根 能 浦乃 珠 曾 不拾
私は望む
皇太子が野や島々に暮らす民のことを思い遣り、代々先祖を追慕し国の基礎を強くしてくれることを
海辺に駐屯している将帥たちは、たとえ浦で玉が落ちて割れてもきっと西征の計画を変えないで
現代の日本人は斉明天皇をとても敬愛していると聞いている。筆者は、彼女の遺言ともいえるこの歌の内容が正しく伝えられ、斉明天皇をもっと愛して欲しいと願っている。12番歌の核心句を解読する。
さようなら、斉明天皇(12番、15番歌、日本書紀の梅花歌・猿尾歌、91番、92番歌) <続く> |