故・西城秀樹氏のおじさんに当たる徐彩源は、全羅南道出身の在日一世の実業家であった。全羅南道順天に学校法人暁星学園を設立したのは1983年であった。翌年の84年4月に順天暁星高等学校を開校している。当然だが、暁星高校では平壌文化語が使われていない。
徐彩源は、いわゆる解放前の京城、ソウルでの生活体験を持っていたから、金達寿と同じくソウルの言葉が標準語だという認識を保持していた。だから、朝総連が実施する民族教育を「平壌文化語」で行う方針に反対だった。
徐彩源が『季刊三千里』誌の発行を支援し、社主を務めたのは、NHKにソウルの言葉を教える講座の開設を要望する運動を支えるためであった。
金達寿によれば、日本社会党の佐々木更三委員長の言葉と北労党の金日成党首の言葉は同じ「ズーズー弁」だというのであった。日本で世界に羽ばたく人材がズーズー弁で通しているなど、聞いたことがないは金達寿の言葉であった。
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自伝的労作『朝鮮と日本に生きる』(岩波新書、2015年刊)のなかで、金時鐘は「朴憲永と金日成」の項目を設けて両者の違いを書き出している。
金時鐘は、朴憲永を指導者とする南労党に1946年2月に入党している。「私は朴憲永を救世主のように崇めて入党した」(前掲書、125頁)と述べている。その金時鐘は、朴憲永と金日成の違いとして土地改革を挙げている。
金日成は「問答無用の民族反逆者・親日派処断、地主なら誰彼なしの総追放、民意を問うことの一切が省かれた土地改革」(前掲書、127頁)と、ソ連側が行った北朝鮮の民主改革の実態に触れている。
一方、米軍占領下で朴憲永は「二段階革命論でありました。土地改革についても当面の民主改革の柱であることを認めつつ、それを直ちに実施するのではなく、小作料を三割に制限する三七制獲得の方針を示していたのです」(前掲書、127頁)。
この土地改革を巡る両者の比較から明らかなように、金時鐘は朴憲永の方針を支持している。この『朝鮮と日本に生きる』のなかで金時鐘が明らかにしているのは、朝鮮の統一を邪魔したのは、ソ連軍の力を背景にした金日成が性急に推し進めた民主改革に求めている点である。
それなのに金時鐘は81年の徐彩源の訪韓に金石範と共に同行しなかった。安宇植は、徐彩源社主に従って訪韓した金達寿らに対して「10年遅い」と批判した。その金達寿・姜在彦・李進煕の訪韓から、更に20年近くが経過してから金時鐘は訪韓する。遅すぎた訪韓であった。
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金時鐘は詩人であり、金達寿は作家であった。両者ともに、「言葉」を紡ぐことを職業に選んだ在日朝鮮人であった。結果として、両者の仕事は日本語でなされた。両者は在日朝鮮人一世として民族語を平壌文化語に統一することには反対する立場から、徐彩源社主が刊行を支援した『季刊三千里』誌で作品を発表している。金達寿は、金炳植の振りかざす『政治学校用参考資料』には辟易し、韓徳銖議長と組んで金炳植を北朝鮮へ送った。だが、金炳植が去っても韓徳銖議長は民族教育の現場に平壌文化語を持ち込んだ。そこで在日の子弟にソウルの言葉を知って貰おうと徐彩源を社主とする『季刊三千里』誌は、NHKに朝鮮語講座の開設を要望する運動を推進した。その運動に和していた金時鐘はNHKがハングル講座を開設する以前に、徐彩源一行の訪韓に反対して、運動戦線から離脱している。
詩人であり、民族教育の現場に立ち会っていた金時鐘は、平壌文化語が朝鮮を代表する言葉とされることに反対していたはずである。その離脱は謎であった。 |